ソンシネマ社(カザフスタン)Song Cinema Inc.
カザフスタン生まれの高麗人映像作家ラウレンティー・ソンのプロダクションで、ソ連崩壊直前のペレストロイカ期に、TUI I YA(君と僕)という社名で出発し、ソ連時代に抑圧された市民と少数民族に焦点をあてたドキュメンタリー作品を数多く製作してきました。大部分の作品は、ビデオの形で東京シネマ新社に保管されており、視聴が可能です。またNHK・民放を問わず多くのカザフスタン・旧ソ連取材のコーディネーションに多くの実績を積んでいます。
2002/05/06 最終更新
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私とカザフスタンの高麗人映像作家、ラウレンティー・ソンのつきあいは非常に古い。最初の出会いは、もう40年近くも前にもなる。私たちは、1960年代前半に、共にソ連、モスクワの全ソ国立映画大学で学んだ。私は監督科の、彼は脚本科の学生であったが、私の最初の学生実習作品に彼は助手として付いてくれたのだ。およそ20年の断絶があったものの、共に劇映画を学びながら、ドキュメンタリーに転じていたため、全く偶然にもエストニアで開催された映像人類学の小さな集まりで再会し、以来12年間、非常に濃密なつきあいを続けている。私の作品作りに彼は大きく関わっているし、彼の1990年以降のビデオ作品の幾つかに、私は深く関わってきた。(岡田一男)

東京シネマ新社で「校長先生」を編集中のラウレンティー・ソンと岡田一男

  

ラウレンティー・D・ソン Lavrenty Dedyunovitch SONG

1941年 中央アジアに強制移住させられたソ連沿海州朝鮮人の子弟としてカザフスタン共和国ウシトベに生まれる。
1963年 全ソ国立映画大学(VGIK)脚本科に学び、ここで岡田一男と知り合い、岡田一男の最初の実習製作に参加。
1966年 VGIKを卒業、アルマ・アタ(現アルマトゥ)のカザフフィルム撮影所で劇映画の脚本家として働く。
1970年代には、劇映画の演出もはじめる。作家としても認められ、ソ連映画人同盟・同作家同盟双方に所属して活発に創作活動を続ける。
1985年  リベラルな言動によりカザフフィルムを追われ、カザフ国立朝鮮劇場を足場に演出活動を続ける。
1986年  アルマアタのロシア語総合誌プロストール(空間)12月号に、文学作品として初めて朝鮮人強制移住を扱った自伝的短編「三角形の広場」を発表。
1987年 モスクワの有力週刊誌アガニョーク(灯)に「三角形の広場」を高く評価した批評が掲載される。
1988年  ソビエト作家出版社より、ソ連初のロシア語による朝鮮人作家作品集「太陰暦のページから」を編集・刊行。自著では「三角形の広場」を掲載。
1989年  カザフスタン作家同盟傘下に独立プロ「Tui i Ya(君と僕)」を設立、抑圧されたソ連市民と少数民族の記録映像を製作し始める。
1990年  エストニアで開催されたパルヌ国際映像人類学フェスティバルで、岡田との劇的な再会を果たす。
1991年  東京シネマ新社に協力、テレビ朝日・朝日放送「サンデープロジェクト」のソ連要人集中インタビュー、ロシア・カザフスタン取材コーディネーター。
1992年  「Tui i Ya」の継承会社である、Song Cinema社を設立。
      下中記念財団創立30周年記念シンポジウムを機に初来日。旧ソ連在住朝鮮人の現状について報告。
      NHK現代ジャーナルで在日朝鮮人作家李恢成氏と対談、映像活動が紹介される。
      小型Hi-8カメラを駆使し、在CIS朝鮮人社会のビデオ記録をはじめる。
1993年  再度の来日を果たし、川崎、大阪、川口などで在外朝鮮人問題のシンポジウムに出席、在ソ朝鮮人問題について講演。
1994年  NHK番組生きもの地球紀行、ETV特集甦る民族音楽などロシア・カザフスタン取材コーディネーターをつとめる。
1995年 NHK番組生きもの地球紀行 の取材のためロシア極北、タイミル半島で夏を過ごす。
1996年  カザフスタン共和国文化省より国立朝鮮劇場の立て直しを委嘱され、芸術総監督に就任。1年という期限付きだったが2年間働く。
1997年  旧ソ連朝鮮人中央アジア・カザフスタン強制移住60周年記念イベント総合プロデューサー。記念劇「記憶(キヨク)」の戯曲・演出。
1998年  カザフスタン共和国大統領府テレラジオコンプレックスの遷都プレゼンテーション公式記録映画の演出・構成。
1999年  カザフスタン高麗人民族センター内に創作活動家ギルドを設立、その中心メンバーとして活動。
      三度目の来日を果たし、岡田一男と「校長先生」の編集仕上げを行う。
      和光大学総合文化研究所 アジア研究・交流フォーラム、川口の文化センターアリラン、北大スラブ研究センターなどで講演。
      NHK ETV特集 流転 (制作 NEP21・ウオーク)取材に協力。
2000年 アジア発見(制作NHK福岡)の取材コーディネーション
2001年 国立朝鮮劇場の立て直しを再度委嘱され、出し物の改編と更新に努力。
2002年 4月をもって朝鮮劇場を離れ、カザフフィルムの劇映画制作へのアドヴァイス、自筆脚本による劇映画制作に復帰しようとしている。
      在日韓国人作家、姜信子氏らが企画した、ウズベキスタンの高麗人写真芸術家、アン・ビクトルの写真展「百年の記憶」関連イベントとして
      ラウレンティー・ソンのビデオ作品上映会が盛大に開催された。そのためコレサラム関連作品の日本語スーパー制作がすすめられた。

連絡先: (国内) 当社 tel: 03-3811-4577  fax: 03-3811-4576  e-mail: info@tokyocinema.net
(現地)  Song Cinema Inc. 34-64 Mametovoy Str., Almaty, Rep. of Kazakhstan, phn: +7-3272-326428
Lavrenty D. SONG, Almaty(Kazakhstan) based Korean writer, film director and producer, who studied with OKADA Kazuo at VGIK in Moscow in 1960-ies. At the Perestroika period, he established independent film studios TUI I YA and later SONG CINEMA. He actively introduced survaival of repressed minolities and citizens in the Soviet Empire. With TokyoCinema he worked as a coordinator and bussiness partner in several TV programs, for example SUNDAY PROJECT (Osaka Asahi TV and TV Asahi in Tokyo), ETV Special (NHK 3ch.), THE GLOBAL FAMILY (NHK).


作品リスト

以下の作品は全て、小社にビデオコピーが保管されております。

コレサラム(高麗人=在CIS朝鮮人)の世界:

フルンゼ実験農場 
カザフスタンに強制移住させられた朝鮮人のサバイバル 日本語スーパー版あり
コレサラム
カザフスタンのウシトベは、朝鮮人が強制移住された場所であったが、他の強制移住された民族との出会いの場でもあった 日本語スーパー版あり
墓参
カザフスタンの砂漠をアラル海に向かって流れるシルダリア河畔の町、クズルオルダに暮らす老朝鮮人作家、詩人カン・テスの苦難の生涯      
ハヤンナビ(白い蝶)   
朝鮮人の子どもたちを中心に形成された演奏団体の記録        
音楽の先生        
ウズベキスタンの朝鮮人主体の集団農場ボリシェヴィークで、流刑されたユダヤ人音楽家、イリヤ・テイテルバウムは朝鮮人の子供たちに優れた音楽教育を施した 日本語スーパー版あり
校長先生        
ウズベキスタン、旧集団農場ボルシェヴィークの現況、カザフ語・ロシア語中学の維持に苦闘する朝鮮人の校長先生。 最新作!!  日本語スーパー版あり     
全ソ高麗人協会結成披露会 
1991年春、モスクワで開催された、協会の披露会の記録


北方少数民族:

ラブンメデヌー       
既に数百名しか残存しない極北の狩猟民ユカギールの未来
カガルマからの逃亡者  
西シベリアで油田開発に苦しむ森の民ハンティ
最終段階         
絶滅の危機にあるサハリン島のニヴフ社会
失われた本        
極東のオロチ人の絶滅に向かう運命


カザフスタン・中央アジアの少数民族:

放浪者           
不当な迫害を受け続けてきた、沿ボルガ・ドイツ人
白水境の探索者     
迫害を受けて東カザフスタンのアルタイ地方に逃げ延びたロシア旧教徒たち
バルハシ湖の神話    
流浪の末、流刑地カザフスタンの辺境に暮らすスウェーデン系の老人
トルコ風の結婚式     
メスヘチア・トルコ人の数奇な運命と現状を、若者たちの結婚式の習俗の中で考える 日本語スーパー版完成


ラウレンティー・ソンの講演(草稿)

下中記念財団創立30周年記念国際シンポジウム(1992)
アリラン文化センター(川口市)(1993)
MILE在外朝鮮人国際シンポジウム(1993)
和光大学 (1999)
北海道大学スラブ研究センター (1999)
東京大学 (1999) 


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