旧ソ連中央アジア諸国の社会・政治・文化的状況
1999.07.04.掲載開始
講演するラウレンティー・ソン(中央)とユ・ヒョジョン和光大学助教授(左)、岡田一男(右)
時:1999年6月25日(金) 午後5時
場所:和光大学J棟301教室
講師:ラヴレンティー・ソン
旧ソ連中央アジア諸国の社会・政治・文化的状況
(予稿)
ラヴレンティー・ソン
ご列席の皆様、和光大学とユ・ヒョジョン先生にカザフスタンと中央アジア諸国の現状についてお話をする機会を作って下さったことを感謝することをお許し下さい。ここでまず申し上げたいことは、私がこの問題に関する専門家ではなく一人の脚本家・映像作家であると言うことです。
ですから私が、これらの国ぐにの政治的・経済的状況を新国家の発展の様子を眺め、直感的に評価しているものであることをご承知おきください。ロシア・シベリアの南の下腹の部分、中国の北西の国境からイスラム世界に属する(旧ソ連の)5つの共和国が広がっています。これが
フランスの国土の6倍に当たるカザフスタンと、キルギスタン、ウズベキスタン、タジキスタンとトルクメニスタンです。
1. 諸共和国の独立と民族間の相互関係
ソ連崩壊と1991年12月21日のCIS=独立国家共同体創設条約への署名によって、これらの国ぐには自国の主権と独立を宣言しました。これは、ただ自国の国歌、国章、国旗などを定めると言うだけではなく、今後個々の共和国は自己の内政、経済を独自に決定し、互いに干渉し合うことはないとするものでした。また政治的にも完全に互いに独立しているというものでした。
しかしながら、経済的な独立というものは、ソ連時代を通じてこれらの国々が、生産関係で縛り付けられている状況の下では、言葉の上のもでしかないことが、直ぐに明らかになりました。このことについては、カザフスタンのナザルバエフ大統領が強調していたのですが、当初あまり
関心が払われず、今になって、ようやく暗黙の内に認められるようになったのです。しかし今もって、経済を通じた内政干渉を恐れ、国家間の経済協力は可能性を追求すると言うには、ほど遠い消極的なものになっています。
ということで、主権宣言と独立後の7年間にこれらの国々に何が起こったのでしょうか?
まず民族間紛争が公然と発生しました。キルギスタンでは、(南西部の)オシ州で、地元のキルギス人とキルギス在住のウズベク人との間に衝突が起こりました。これは、地元当局が農業により熟達したウズベク系の農民に土地利用の権利を多く与えようとしているという口実で挑発されました。キルギスの農村青年達は失業状態にあり、不安は彼らの側から見れば当然でした。
ここで、ニュース映画の一こまをご覧下さい。これはウズベキスタンにおけるメスへチ・トルコ人におこった公然とした民族間紛争の有様です。このシーンはソ連崩壊の2年前に記録されたものですが、この後も紛争はこのような規模ではないにしろずっと続いたのです。
(記録映画:トルコ風の結婚式からの抜粋ビデオ映写)
一般的に見て、どのような多民族国家の内政においても、最も複雑な問題は民族間の関係です。というのは、適切な時期に処理がなされないと、局部的な日常生活上のもめごとが、たちまち全国的な規模の民族間の衝突に発展しかねないからです。ところが、こうした衝突は、隣国との関係において国内政治勢力の対立が高じることによって上の方から引き起こされる場合もあります。これから触れるタジキスタンの情勢は、このような形で始まり、また今も続いているのです。国家権力を巡って、レニナバド付近の北部勢力、公的に政権の座にある南部(ドゥシャンベ)勢力、それに親アフガニスタンの(イスラム原理主義)勢力という三つのグループが内戦を行い、結果として居住していた少なからぬ他の民族を無政府主義の火事の中に引きずり込みました。排外主義的なタジク人の政治は、ロシア人、ウズベク人、タタール人、朝鮮人、など他の民族の国内からの大量出国を引き起こしました。国内の治安は失われ、政府には事態を制御する力を失い、誰もが武装を固めて、他人の生命の尊厳については考えない風潮が習慣化しました。タジキスタンのそんな中で良く知られた勇気ある学者であった貴国の
秋野先生は殺害されたのです。
私は、タジキスタンからの難民にインタビューしたことがあります。これは朝鮮人の老婦人です。
(目下仕上げ中のソンシネマ・東京シネマ新社共同作品 「校長先生」の抜粋から)
民族間紛争がトルクメニスタンに存在するのか?という公式の報道機関は何も報道していません。そして情報という観点からするとトルクメニスタンは全く鎖国状態となっています。こういう状況では、一般的にその国内では不公正なことが行われている、と見るのが常識です。この国の天然ガス資源は極めて豊かで、(自国にガス田を持つ)ウズベキスタンを除く中央アジア諸国やウクライナは、トルクメニスタンの天然ガスを輸入することで大変な債務をトルクメニスタンに負っていました。また、この国の住民には天然ガスの利用は無料であり、税金の負担も非常に軽いと言うことが良く知られています。しかし、一般庶民の生活は非常に厳しく、平均月収は、5米ドルに過ぎません。
トルクメニスタン内部の政治生活の風潮は、近親者や友人との席ですら、(ニャゾフ)大統領に対する批判を口にすることは絶対の禁句であるということで、ご判断いただけると思います。私は、同業者である(トルクメニスタンの)映画関係の友人達との会話の中で、ニャゾフ大統領に対する自分の考えを述べたところ、次々と友人達が席を立って部屋から姿を消し、最後に残った同僚に、今後一切かような発言は控えて欲しいと懇願された経験があります。
独立の初期、カザフスタンでも民族間紛争は、日常の個人的もめごとに過ぎませんでした。それはカザフ人とトルコ人、カザフ人とチェチェン人の間のものでした。かなり深刻で政治問題化したのは、カザフ人とウラル・コサックとの間の紛争でした。しかし、カザフスタンのような多民族国家においては、民族間紛争はたとえ小さなものでも絶対に許容したり、見逃してはならないということを良く理解している(ナザルバエフ)大統領のおかげで、問題は沈静化してきました。彼は問題の起こった地域に自ら赴いて、双方の長老達を召集し、会合を持ってきました。起こった事件に関して彼らがどのような意見を持っているのかを、また将来的にどのようにしたら平和と双方の合意が得られるかを聞き出す
ことを続けてきました。
此処には次のような特殊性があります。人口的に見て、カザフスタンでは先住のカザフ人が50%を占め、後の半分を共通語としてロシア語を使う100を越える様々な民族が占めているという事情があります。もしも、算術的に互角な者の間に紛争が起こったら、双方に膨大な犠牲者を出した上に、勝者はいないと言った結果をもたらすのは明らかです。おかげさまで我が国の指導部は、冷静な頭脳を持ち、事態を良く理解し、兄弟殺しのような衝突による火事を絶対に燃え上がらせまいとしています。6年前、こんなことがありました。カザフ人とチェチェン人の青年達の喧嘩が起こったとき、会議の席上、チェチェン人の側から、彼らの若者たちが、この地での和解を受け入れず、むしろ彼らの民族的な故郷であるチェチニアに立ち去ることを望んでいるという発言がありました。
ナザルバエフ(大統領)は、長老達に同意すると、直ちにチェチェン人の若者達の家族のため客車2両を用意し、頭に血の上った連中を全て収容して一気にグロズヌイ市に向けて送り出しました。それ以来、このような衝突は(カザフスタン)共和国では、ぴたりと止まりました。
この若い共和国の喉元を締め付けているのは、むしろ別の問題です。次に、その問題に触れましょう。
2. 経済、民族の移動と出国
年若い新興独立諸国家にとって最も困難な事は、政治的体制づくりではなく、経済構造の確立であることが明らかになってきました。ソビエト政権から引き継いだ予算化された国家補助金に頼る古い経験は、市場経済の法則を速やかに身につける妨げとなりました。
拙速の結果として少なからぬ過ちが犯され、経済の問題は、今もこれらの共和国をして、出口の見えぬ危機の水門に立たせています。つまり次のようなことが起こっているのです。資源的には
これらの若い共和国は非常に豊かなのですが、その資源を加工する技術的基盤が自らの手に無いのです。(ソビエト)帝国は、資源の採掘現場であるこの地域に必要な量の加工工場を造らなかったのです。諸工場はロシアに建設されたのです。そして主権と独立を宣言した若い諸国家は採掘し、加工しなければ(富と)ならない埋蔵資源と共に取り残された形になりました。どのような富があるのかといいますと、トルクメニスタンは膨大な天然ガスを埋蔵しています。既にソビエト時代にその採掘と、パイプラインの建設は始まっていました。ガスパイプラインの建設なしには、この共和国のガスを外部に持ち出すことは困難ですから、それは納得のいくことです。隣接するカスピ海の海底には膨大な石油が埋蔵されているのですが、目下は採掘が困難です。
ウズベキスタンもまた天然ガスに恵まれ、その採掘とガスパイプライン建設は、ブレジネフ時代に始まりました。トルクメニスタンとウズベキスタンという二つの天然ガス生産国は運が良かったと言えましょう。またウズベキスタンは、金と綿花を産します。金の年間産出量は60トンといわれて
います。しかし、多くの専門家が出国してしまったため、技術力の低下が問題を引き起こしています。綿花もまた戦略的なと言える価値のある原料です。現在、綿花は、収穫用のコンバインの老朽化による破損、新型機器の生産停止、修理部品の入手困難、製造工場の閉鎖などの原因により、収穫を手作業で行っています。綿花収穫用のコンバインの製造工場は、なんとウクライナに建設されていたのですが、両国の経済的な結びつきは破壊されたのです。
このような破壊の結果、日常生活用品の生産も極度に低下しました。新しい通貨であるスムはインフレに見舞われ、カザフの新通貨、テンゲよりも激しい下落ぶりを見せています。経済的な思惑、それと政治的な不安定さの双方理由から、最も有能な専門家達が国を捨て始めました。政治的な不安定さというのは、この国においては地方的な派閥の力が非常に強く、タシケント、ブハラ、サマルカンドなどなど6つの地方閥が権力を競い合っているのです。ウズベキスタンの大統領であるイスラム・カリーモフは、サマルカンド閥に属しています。最近の大統領暗殺未遂事件は、この国の政治的状況の緊張をはっきりと物語っています。
今後の治安強化にカリーモフは、カザフスタン・ウズベキスタン国境を閉鎖し、厳重な管理の元に何故か、ウズベキスタン市民のみが通過を許されると言う決定をしました。これでは、まるでカザフスタン市民が彼を襲ったと言わんばかりの態度です。ところで、(この暗殺未遂事件の)犯人はカザフスタン・ウズベキスタン両国の治安組織である国家保安委員会の共同作業で、カザフスタン(東部)のタルドィ・クルガン市に潜伏しているところを逮捕されましたが、全員が国籍はウズベキスタン籍でした。
キルギスタンは、小さな共和国ですが産金国で、ウラン鉱石を産し、現在はカナダの企業が採掘を行っています。
カザフスタンは、石油、天然ガス、石炭、貴金属、そして魚類など水産資源とフルシチョフ期からブレジネフ期にかけて行われた広大な処女地開拓による農産物に恵まれています。かつてこの地域は、膨大な穀類の生産地でありました。研究者達の予測によればカザフスタンの石油埋蔵量は、サウディアラビアとクエートの双方併せたものより多いとさえ言われています。これらは(西部の)カスピ海の海底と沿岸のマンギスタウ州に眠っています。その採掘には膨大な投資が必要であり、先進国は必要な資金の投入にためらいを見せています。そして既に採掘された原油は、それを必要とするヨーロッパ諸国や中国といった消費地に送り届けるのに大変な苦労をしています。ヨーロッパ向けにカザフスタンの原油をパイプラインで送ることを引き受けているロシアは、カザフ原油のパラフィン含有量の多さを理由に輸送量を50%削減しました。この一方的な削減は、カザフスタンの国庫収入を強く圧迫することになりました。
今、二つのカザフスタン原油の輸送路が検討されています。先ず第一に、カスピ海の海底を横切ってパイプラインを(アゼルバイジャンの)バクーに送り、そこからトルコを経由してヨーロッパに送ろうというものです。この計画も膨大な資金を必要とし、カスピ海の原油汚染を警戒する環境保護論者達の激しい反対を受けています。第二の道はイランにパイプラインを引き、イランがカザフスタンから必要なだけの原油を受け取ったら、ペルシャ湾に待機する中国のタンカーにイラン原油を中国に引き渡すというものです。
この計画は、中国側から熱烈な支持を得てパイプライン建設の高額な資金も中国が負担することにしましたた。このやり方にも実現には少なからぬ年月がかかりますが、カザフスタンにとっては経済危機から脱出する方策が必要なのです。
この春、カザフスタンの通貨テンゲは大暴落を経験しました。一日で1米ドルとのレート、80テンゲが150テンゲまで下落したのです。新通貨導入当時(の1993年おわり)には1米ドルが4.5テンゲでした。政府がインフレ抑制に行ったことは、社会福祉の出費を極端に削減し、労働者への賃金を1年まで遅配するとうものでした。また歳入に関しては企業と住民に許容しがたい増税を課すというものでした。結果として、生産における未払いはあたりまえのことになり、今度は税収が極端に減る結果を招いています。
(こうした困難に)人々は、今や国を捨てようとしています。出国を始めたのです。ユダヤ人はイスラエルへ。ドイツ人はドイツへ。トルコ人はトルコへ。ギリシャ人はギリシャへ。ロシア人はロシアへ。(しかも)出国していくのは、生産企業の熟練労働者と有能な農民達です。朝鮮人に関して言うならば、大部分は(カザフスタン)共和国の内部で動いています。あるものは、より農業生産を効率的に出来る土質の良い土壌を求めて、またあるものは、商店を開いて商業活動に従事したり、朝鮮料理屋を営業するため都会に移住しています。
しかしロシア、アメリカ、ドイツ、オーストラリアといった、外国への移住も増えています。カザフスタン独立の当初、モンゴル在住のカザフ人の大量帰還がありましたが、彼らの受け入れに対する我が国の不備に(失望して)、彼らの多くは再びモンゴルに戻ってしまいました。つい最近行われた人口センサスでは、暗澹たる結果が判明しました。それは、この10年間に、カザフスタンの人口が150万人も減り、1450万に
なっているということでした。第2次世界大戦後にはこのような悲惨な人口減少は、記録的なものであります。
3. 国家言語
いかなる独立国家においても国語の制定は大切なことです。そして、それぞれの共和国は、国ごとに、国名に掲げている民族の言葉を国語に定めました。トルクメニスタンはトルクメン語を、ウズベキスタンはウズベク語をキルギスタンはキルギス語を、そしてカザフスタンはカザフ語を。しかし、これらの若い国家に居住する色々な民族の感情には否定的なものも発生しました。
それは、これらの国ぐにの指導部の思慮の浅さに起因するものでした。自分の国であるカザフスタンに限って考えてみようと思うのですが、国家言語の問題に関する反響は、これらの共和国に共通して言えることでもあります。カザフスタンにおける非カザフ系住民のいかなる代表達も、国家言語(国語)の制定に対はしませんでした。しかしながら、日常生活や労働現場への民族語の強制的な導入は、色々な問題を
引き起こし、解決も色々な理由から不可能なように見えます。先ず土地の言葉を習得していない非カザフ系中年層の人々にとっては、日常生活、社会サービス、生産現場などの全てにおいて非常な居心地の悪さが引き起こされました。例えば医師には、国家言語を使えることが資格条件になりましたが、結局は患者にも同じ事が要求されることになったのです。民族語の使用の実現には、たんなる命令書も、あるいは
大統領令さえも有効とは言えないでしょう。それは他の分野でも同じでした。多くの優秀な専門家たちが国家言語を知らないと言う理由で自分の職場を明け渡さなくてはならなくなりました。当然の事ながら、これらの人々は、この国を去っていきました。
ソ連時代、国家言語はロシア語で、専門家なら100%の人々がこれを使えたのです。しかしこれは、70年かかって達成した成果なのでした。どうして人々に他の言語を瞬間的に覚えるなどということを要求できるのでしょうか?これは従来からの指導部のやり方とよく似ています。結果なんか考えず、先ずやってみて、ああ何でこんな事をしてしまったんだと、後から考えてみると言う愚行です。この問題は都市に生まれ、
ロシア語で高等教育を受けた地元のカザフ人の専門家達にも困難を引き起こしました。
いくつかの州では、カザフ語とロシア語の併記を定められている場合にも「積極的」な指導部が愛国心を見せびらかそうと、業務上の文書にまで、カザフ語のみを使うと言った動きを始めました。
キルギスタンでは、アスカル・アカエフ大統領が真っ先に性急な国語の要求の危険性を理解し、ロシア語を使用するスラブ大学の創設をするなどの対策を打ちだしました。これは緊張を弱めはしましたが、事態の解決には遠いものです。
カザフスタンにおいては、ナザルバエフ大統領の断固とした意見表明とロシア語に対する多民族間の相互理解のための公式言語という資格の付与によって人々は、ようやく静かになりました。しかし、この決定は明らかに手遅れでした。この決定がなされて2ヶ月後になっても、民族的愛国主義をユニークに理解した学者連中が、カザフスタンにおける全テレビ放送の80%以上をカザフ語で行うようにすべきであるとする勧告文を大統領宛に送りました。この手紙を受け取った大統領は、手紙を社会に公開する一方で、学者達には、辞書の発行、会話集、ビデオやオーディオカセットなどあらゆる手段を講じてのカザフ語習得のもっとも速やかな方法を検討して欲しいとし、先般の有能な専門家を数多く失った最近の誤りを繰り返してはならないという理性的な提案を行いました。私はどの言語も尊敬されてしかるべきであり、大衆受けを狙った政策で、言語問題を弄んではならないものと考えております。
4. そして最後に
私の主観的な考えと評価は、中央アジアとカザフスタンの政治的、社会的、経済的状況をあまりに暗く描きすぎているかも知れません。私自身、若い国家に降りかかるあまりに多くの困難に、辛い思いをしております。外部からの支援は不可欠であるとも思っています。しかしながら、我々の新国家建設への自助努力がなくては、支援など来るものではないことを知っています。格言に言われているではありませんか、未熟とは人間の本来的なものでは無いと。人間にとって若さは一時的なものであり、歳をとりつつ人間は、後に続く世代にとって暮らし良いように、
賢く人生の問題を解決するようになっていくのだと。
ラウレンティー・ソン 脚本家・映画監督 1999.06.15. 東京にて
訳 岡田一男 東京シネマ新社
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ラウレンティー・ソンの講演
下中記念財団創立30周年記念国際シンポジウム(1992) CIS在住朝鮮人は何を失い、何を守り、何を得たのか?
アリラン文化センター(川口市)(1993) CIS在住朝鮮人の現況
MILE在外朝鮮人国際シンポジウム(1993) CIS在住朝鮮人について
北海道大学 (1999) ソ連崩壊後の中央アジアの朝鮮人
東京大学 (1999) ソ連崩壊後の国内政治的経済的転換期におけるカザフスタン映画人の創作活動