ソ連崩壊後の政治・経済的転換期におけるカザフスタン映画人の創作活動 

報告者: ラウレンティー・ソン
主 催: イスラム地域研究A1班中央アジア研究ネットワーク
於: 東京大学本郷キャンパス 山上会館 
1999年7月11日 14:00-17:00    


≪Творческая деятельность кинематографистов
Казахстана в период политических и экономических
перемен в республике после распада СССР≫

Лаврентий Сон

Токийский университет,
11 июля 1999 г.


1980年代の末、アルマトゥのカザフフィルム撮影所にモスクワの全ソ国立映画大学(VGIK)と高等監督コースを修了した一連の若い映画監督たちがやってきました。彼らは、人生上の視点も、使う映画言語も先輩である中年層の映画監督たちとは、明らかに違っておりました。彼らは国家予算を使って、それぞれ1−2本の劇映画を撮ることに成功しました。才気に溢れた彼らの作品は、個々の人間的な心理の深部に入り込もうとする努力と、劇中の出来事を簡潔な時空の中に限っていることで、先輩たちの作品と際だっていました。端的に言ってしまえば、物語の室内性とでも言えましょうか? 彼らの先輩たちはと言うと、旧世代の映画人は、芸術界における極めて厳しい検閲に妥協して仕事をするのを止めておりましたし、また中年の私などの世代は、自分の考えをイソップ物語のような寓話的にものを書くことを学んで、検閲制度との終末戦争に備えて、そのような話法を磨くことに大変なエネルギーを使っておりました。

しかし、ペレストロイカが1985年に始まると、検閲は事実上廃止され、イソップ的な話法は、全く意味を失いました。映画界に映画批評家たちが、カザフ映画のヌーベルバーグと評した若い世代が登場し、中年世代の映画監督たちは、それが自分たちの映画活動の継続に、その一歩がどんな意味を持つのか深い検討をすること無しに記録映画の分野に足を踏み出しました。独立採算制の小さな民営映画プロダクションが、雨後の竹の子のように登場しました。その数は2年後、32を数えました。彼らは、様々な工場や国営農場などをスポンサーに、それらの企業を記録する作品を受注しました。芸術的な観点から言えば、映画芸術とは全く無関係なこれらの映画製作は、利益率が50%もありました。

こうした作品は、注文主に見てもらえばそれで良いので、広い観客層は無用でした。しかし、経済変革が進行すると、企業は理性的になり、予算執行を経済的に進めようと、こうした自画自賛映画を発注しなくなりました。その結果、民営映画プロダクションは、まもなく潰れていきました。最終的に残ったのは、かなり目立った、2社に過ぎませんでした。

その1社は、3000万ルーブリの強力な資金で始めたマクス・スマグーロフのプロダクションで、彼は、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャン、沿バルト諸国、モルドワとスベルドロフスクに資金を提供し記録映画製作を発注しました。ところが残念なことに、これらの地域に勃発した
戦争は、これらの作品を未完成のままにしてしまいました。投資金の返済は話にもなりませんでした。もう一つのプロダクションは、1989年に私が創立した≪ТЫи Я≫(君と僕)で、1992年に私企業のソン・シネマに改称し現在に至っております。このプロダクションはドキュメンタリー映像の製作に特化したもので、ささやかな75,000ルーブルをある銀行から借り受けて発足しました。この金で私は、ソ連の、後にはCIS諸国の少数民族の歴史、文化そして社会的状況を取り扱ったドキュメンタリー映画の制作を始めました。あらゆる創作者がそうであるように、私も自分の個人的な視点で自民族にまつわる人物や出来事を映画作品に仕立てたいと思ってきました。しかし、ソ連の検閲制度の下では、劇映画の主人公に朝鮮人を置くということは、図々しさの現れと受け取られることでありました。そこで私は自分の劇映画作品の主人公たちにカザフ人の、またはロシア人の名前を付けておりました。

1私は政治的に信頼できないと言う濡れ衣を着せられた離散朝鮮人という少数民族の一員として、今後はあらゆる少数民族の問題を語ることに努力しようと決意したのです。そしてドキュメンタリー映画は、その形式からして低予算でも制作可能な、最も私に向いた映画的ジャンルと言えましょう。我が社の製作プログラムは明快で、内容が有能な監督たちを引きつけ、パルヌ(エストニア)、ベルリン、パリ、ソウルなどの国際映画祭でも受賞する作品を制作することが出来ました。

ただ正直に告白すると、これらの作品群は、商業的には全くの失敗で、私が大変な苦労の末、借りた金を返済することが出来たのは、私の友人であり、仕事仲間でもある岡田一男さんが、私の組織能力を大阪朝日放送やNHKの仕事に結びつけてくれたお陰です。私のプロダクションの外国のパートナーとの共同作業は、常に双方にポジティブな成果をもたらしてきたと思っております。ハンティ、ユカギール、ニブフ、オロチなど北方少数民族に関する作品は、ロシアテレビを通じ、初めて広い視聴者に紹介する事が出来ましたし、そのことを嬉しくも感じました。

またカザフスタンにおける少数民族、ロシア旧教徒、ドイツ人、トルコ人、朝鮮人などの作品も制作しておりますが、当初、カザフスタンのテレビ局は、驚いたことに私に対して放映するならと放映時間あたりの電波料を要求しました。これは、たとえ僅かではあるにしろ、ロシアテレビから作品に対する放映料を受け取っていた私には、全く不可解な出来事でありました。時が経過して今では、カザフテレビも私の作品を放映するときには無料ではありますが、電波料を徴集するなどとは言わなくなりました。今日お見せする"音楽の先生"は、カザフスタンに於ける最も影響力のあるテレビ局ハバルを通じて3回ほど放映されました。このチャンネルは、劇映画からドキュメンタリー映画に移行して行った、他の多くの映画監督たちの作品も放映しております。

何故、私がテレビ放送を詳しく語ろうとするのかと申しますと、今日、良心的な映像作家が将来の仕事について考えるとき、観客と結びつく可能な唯一の道となっているからです。我が国のみならず、CIS諸国全てを通じて映画の配給上映機能は、今や完全に破壊されているのです。
大部分の映画館は、事業家たちに買い取られ、ゲームセンターやカジノの類に姿を変えました。そして、大変才能ある若い世代の映画監督たち、ナルィムベートフ、アプルィモフ、カラクーロフ、オミルバーエフらの作品は、CIS諸国、フランス、イタリア、日本、アメリカなどの国際映画祭でのみ上映され、そこで非常に高い評価を受けているのです。そして彼らには、さらに厳しい状況が訪れています。というのは、フィルムから得られる収益には全く考慮せず、スポンサーが映画芸術に金を出すことをほとんどの場合、拒むようになってきたからです。劇映画の制作費捻出はますます困難になっています。

劇映画出身でドキュメンタリー分野に進出した映像作家たちは今、カザフスタン共和国大統領府テレビラジオ・コンプレックスでドキュメンタリー作品を制作しています。この組織の第一義的な機能は、大統領府とカザフスタン共和国政府の活動を広報することにありますが、テレビラジオ・コンプレックスの指導部は、制作費の半分を作家側が負担することを条件にドキュメンタリー作品を制作する許可を上部から取り付けたのです。製作スタッフは、残りの制作費を捻出しなければなりませんが、今日の状況下では、これは決して悪い条件ではありません。私があまりに自分のプロダクションであるソンシネマと自分について語りすぎているとお感じになる方もいられると思いますが、これは私に謙譲さが欠落しているためではなく、映画制作活動を継続しようと私が経験してきた道のりが、私の世代の映像作家には共通のものであり、私にとってこういう風に語ることが、より実証的で容易であるからです。

次に今回お見せする、"トルコ風の結婚式"についてお話ししましょう。この作品は英語版で英文スーパーが入っているので、岡田さんと話しあって、事前に内容を説明しておいて見ていただこうということにしました。

"トルコ風の結婚式"、脚本・演出、ラウレンティー・ソン、撮影がエドアルド・ボヤルスキーと、ヴァレリー・ザハーロフ、プロデューサー、スタニスラフ・ソン、1992年撮影、1996年完成、カザフスタン共和国、ソン・シネマ作品。

この作品の外見的なテーマは、非常に単純です。これはメスフ人=メスヘティ・トルコ人の結婚式儀礼の詳しい記録です。トルコ式の結婚儀礼は、大きく二つに分けられます。前半は、新婦を送り出す、新婦の実家でのお祝いです。新郎は、このお祝いの席には出席できません。後半はこれが結婚式の基本となるものですが、新郎の近親者によって新婦が連れてこられた新郎の家でのお祝いです。メスフ人という呼び名は、彼らが1944年にスターリンの命令でグルジアの移住させられたことによります。この作品には、1989年にウズベキスタンのウズベク人とトルコ人の間でおこった民族紛争であるフェルガナ事件のニュース映像が挿入されています。衝突は、社会的、生産関係の理由があって発生しました。

農業、特に野菜栽培と果樹園経営に大きな経験を有するメスヘティ・トルコ人は、地元の失業状態の大部分のウズベク住民よりも、はるかに良い暮らしをしていました。結果として、1万7千人のトルコ人が自らの意志に反して、住み慣れた土地と自分の家を捨て、難民化することを余儀なくされました。

また、この作品には5つのインタビューが含まれています。最初のものは、トルコ人作家のアリーエフのものです。 

ソ連とトルコの平和条約の結果、我々の故郷はグルジアの一部とされました。1941年当時、トルコ人は20万人を数え、うち4万は、壮健な男子でソ連赤軍に従軍していました。戦時中に、内8人には、ソ連邦英雄の称号が与えられましたが、いかなる勲記にも、軍の文書保管施設にも彼らがトルコ人であったことを証明する記録はありません。次に無念なのは、ソ連政府が我々がトルコ人であることを抹殺して、我々のパスポート(国内身分証明書)に、我々の民族籍をアゼルバイジャン人としてしまったことです。にもかかわらず、1944年には、ベリヤとスターリンの命令で、我々はトルコ人であるとして、全ての財産を放置したまま、貨車に詰め込まれて中央アジアとカザフスタンに強制移住させれました。こうして我が民族は、自分たちの文化を発展させる機会を50年間も奪われたのです。この国の指導部には、いかなるトルコ人も参加していません。

二つ目のインタビューは若いトルコ人のものです。 

お祭りの日には、喜ばしいとは感じるのですが、何か縛られているようにも感じるのです。そして地元の人々と紛争が起こると、人々は互いに獣を見るような目つきになります。

三つ目のインタビューは、トルコ人のおばあさんのものです。彼女は1944年の強制移住の想い出を語っています。 

昼の12時に、当局の人がきて、我々は移住だと通告したんだよ。私のところには、小さな子が3人いたんだ。貨車に詰め込まれて17日もかかって、こちらに着いたんだ。


四つ目のインタビューは、退役軍人のものです。 

我々が前線で闘っていたときに、全てのトルコ人は、強制移住となったんだ。私の家族はカザフスタンのカラガンダに送られたと言われたんだが、何処をさがしてもいなかった。私が自分の妻子を捜し当てたのは、キルギスタンのオシの町だった…


五つ目のインタビューは、アルマトゥのトルコ文化センターの代表のものです。 

70年間もの間、私たちは全体主義国家に暮らしてきました。そこではあらゆる文化の発展が阻まれていました。われわれトルコ人のような少数民族は言うに及ばず、カザフ人すら、自らの土地、自分の生まれ故郷に暮らしながらも、自らの言語を失い始めていました。私は、カザフ人の間で育ち、文字通りロシア人とも、ウズベク人とも、カザフ人とも、チェチェン人ともイングーシ人とも、朝鮮人とも、ドイツ人とも仲良くつきあいました。寄宿舎で一緒に暮らし、問題なんかありませんでした。

今起こってることと言ったら、どういうことなのでしょうか? 何のために4万人ものトルコ人の同胞が、大祖国戦争の前線で血を流さねばならなかったのでしょうか?そのうち、2万6千人が命を落としたのですよ。彼らは、ソビエト社会主義連邦共和国という祖国のために死んでいったのです。これはグルジア、ウズベキスタン、カザフスタンのためでもあった筈です.. ところが今日、ロシアはロシア人のものだとか、グルジアはグルジア人のものだとか、ウズベキスタンはウズベク人のものだとか.. それでは、残りのものは、何処へ行けと言うのでしょうか? 我々が此処へ自分の意志でやって来たとでも言うのでしょうか? これでは事実上の第2の強制移住ですよ!... 一つの世代が、47年間に2度も強制移住などと言う目に遭うなんて...


テレビニュースのジャーナリスト・レポーターの声

衝突の結果、およそ2000人のメスへティ・トルコ人が、フェルガナからロシアに疎開しています。この課題は困難を極めます。飛行機も足りませんし、ほとんどのトルコ人は、身分証明書を盗まれたり、無くしたり、焼かれてしまったりしています。事態の正常化には、まだまだ長い時間がかかることでしょう...


最後に若いトルコ人の言葉で作品は終わります。 

私は、みんながお互いに人間であると認め合い、互いに誠実に尊敬しあうことが大切だと思います。互いに仲良く助け合えば、子供たちの暮らしは、今より良くなるでしょう。私は、みんなが仲良く、愛し合うことを望みます… 

=トルコ風の結婚式を映写=

今度は、"音楽の先生"という作品です。脚本と演出、ラウレンティー・ソン、撮影、アレクセイ・キム、作曲、ヤコフ・ハン、エクゼクティブ・プロデューサー、タニベルゲン・ハジーエフ。制作、カザフスタン共和国大統領府ラジオテレビコンプレックス、994/98年撮影、1998年作品

作者の声。 

この話の主人公は、私がウズベキスタンの集団農場、ボリシェビークで朝鮮人についての記録を撮影中に初めて知り、彼の小さな顔写真を頼りに消息を4年にわたって捜した人物です。その人の名は、イリヤ・テイテルバウム。1910年にリトアニアで生まれ、ヴィリニュス交響楽団の指揮者でした。

1941年の6月に(ウクライナの)キエフに客演中に、戦争が勃発、全てのオーケストラ団員は、NKVD=内務人民委員部から政治法令第58条による様々な刑期で、ソ連各地の建設現場や産業施設へ政治流刑の処分を言い渡されました。イリヤ・テイテルバウムは、(ウズベキスタンの首都)タシケントの運河建設の現場に送られ、指揮棒のタクトの替わりにツルハシを握ることとなりました。建設現場は、朝鮮人集団農場(コルホーズ)、ボリシェビークからほど遠からぬところにありました。コルホーズの構成員は、全員が日本帝国主義を利するスパイ行為の濡れ衣を着せられ、1937年に極東から強制移住させられてきた朝鮮人でした。それ以来、ソ連の指導部は、朝鮮人を政治的に信頼できない人々と見なしてきたのです。 

当時のコルホーズの議長だったキム・グワンチャクは、非凡な人でありました。農業に豊かな経験を有し、意志の強い組織者で、あらゆる問題に関し、あらゆる階層の上部機関と交渉する能力がありました。

そして、芸術の愛好家でもありました。自分のコルホーズで、時間を持て余している鼻垂れ小僧たちに目的意識を植え付けようと、農産物と交換に様々な楽器を手に入れていました。彼は、子供たちに楽器の扱い方を教えてくれる人を捜していたのです。文化担当の副議長は、黒んぼグリーシャと呼ばれた本当に色の黒い男でしたが、キム議長の命令で適任者を捜していました。彼は、運河の建設現場で働く囚人に関心を寄せました。 

あんたユダヤ人だな? 黒んぼグリーシャが訊きました。 はい、そうですが。 だったら、あんた音楽家に違いない。我々には、あんたみたいな人が必要なんですよ。  

こうして、黒んぼグリーシャは、議長に適任者を見つけたことを報告しました。キム・グワンチャク議長は、あらゆる手管を行使し、賄賂の提供によって、イリヤ・テイテルバウムを朝鮮人自身がそうであった特別移住者という取扱いに書き換えさせ、自分が保証人となって彼を自宅に引き取ったのです。特別移住者としてイリヤ・テイテルバウムは、毎月1回治安当局に出頭を義務づけられました。イリヤ・テイテルバウム
は、こうして、流刑期間の5年を、この集団農場の議長の家で過ごしました。彼は非常に病弱で、ほとんど失明状態の身でした。彼が視力を回復するまで、1年近く議長の末息子のボーリャが、彼の杖代わりになっていました。イリヤ・テイテルバウムは、集団農場の学校でドイツ語を教え、残りの時間はキム議長との約束に従って、子供たちに音楽の法則と様々な楽器の取り扱いかたを根気強く教えて行きました。

まもなく、子供たちの楽団は、タシケントの傷病兵病院への慰問や負傷兵の葬儀に呼ばれるほどに成長しました。 キム議長の末娘のスベトラーナ・キムは、イリヤ・テイテルバウムが議長の家にやって来たとき、たったの2歳でした。彼女が語るに、当時の彼女は、立って歩くことがほとんど無いほどに、イリヤおじさんに抱かれていたと言うことです。彼女は今に至るも、1947年に集団農場を立ち去った彼を大人になったとき、本気で捜さなかったことを後悔しています。もし今、彼が見つかるなら、その居場所に飛んでいって、彼を自分の家に連れ帰り、自分たちの一家で、彼のお世話をしたいものだ、と語ります。彼女は、自分が彼の娘のようなもので、自分の子供たちは、彼の孫のようなものだと言うのです。彼女は探索を断念したのは、プラウダ紙(ソ連共産党中央機関紙)に、彼を捜して下さいという依頼の投稿をしたとき、
本紙は、尋ね人を扱っておりませんと言う、無味乾燥な返事をもらったときだそうです。 

流刑の刑期を終えたイリヤ・テイテルバウムは、自分の生まれ故郷に戻るつもりでした。しかし、リトアニアには向かわず、ベラルーシに行ったことが後から判明しました。

彼は、立ち去るとき、家族同様になっているオーケストラ団員の子供たちに別れを告げることが、できませんでした。キム議長は彼の辛い心情を察し、秘かに彼を鉄道駅に送りました。しかし、やはり特別移住者で、秘かにテイテルバウムに恋していたポーランド娘のバルバラは、子供たちが演奏の練習をしているクラブに駆けつけ、先生が、彼らの元を永久に立ち去ろうとしている事を知らせました。子供たちは荷馬車を駆って駅に向かいました。とっくに列車は出発しているはずで、無駄に違いないことでした。しかし、運良く子供たちは、車窓に先生を見つけました。先生は、子供たちに見つかるまいと間仕切りに、姿を隠そうとしていました。ふたりの少年、ボーリャとヴァーニャは、クラブにおいてきた楽器を取りに戻ると、音楽の先生が乗った、去っていく列車に向かって、涙に暮れながら、"音楽家への賛歌"を演奏しました。このシーンに
ついては、劇映画の手法で、既に老境に達している当人たち、ふたりのアマチュア音楽家、ボリス・グリゴリエヴィッチと、イヴァン・アンドレーヴィッチに再現してもらいました。 

こうして私は、ベラルーシに取材に行くことになったのですが、イリヤ・テイテルバウムに逢ってみたいと言う期待は、たちまち絶たれてしまいました。彼は、31年前の1967年に亡くなっていました。彼は晩年舞台俳優コンスタンチン・ペリツェル一家と同居していました。俳優の子息,
ピョートル・ペリツェルがイリヤ・テイテルバウムおじさんの晩年の暮らしぶりについて語ってくれました。テイテルバウムは晩年の20年間を
ミンスク市のロシア・ドラマ劇場の指揮者として働いていました。集団農場ボリシェビークから戻って、5年後、彼は再び視力を失いました。

しかし、人生の最後まで現役のオーケストラ指揮者でした。盲人がオーケストラの指揮をするとは、考えられないことですが、彼は素晴らしい記憶力で、とくにベートベンなど、膨大な量のクラッシク音楽を暗譜していました。  

助監督のニーナ・シャデューコワは、20年間にわたってイリア・テイテルバウムと共に働きました。彼女は、カーテンの脇で芝居の進行を見守り、イリヤ・テイテルバウムは、オーケストラボックスの譜面台の後ろにいました。彼らは、簡単な信号システムで意思を疎通させていました。テイテルバウムは、いつも照明用の電球を握っていて、助監督は、音楽の始まりを、電灯を点灯するスイッチを入れることで合図したのです。
手のひらに点灯した電球の暖かみが伝わると、イリヤ・テイテルバウムは指揮棒を振り、オーケストラは演奏を始めました。 

コルホーズのオーケストラには、20人以上の少年がいましたが、今でも4人が残っています。またテイテルバウムの教え子から2名が、タシケントの音楽院に進み、職業的な作曲家の道を歩みました。またもう一人が非常に有名な演奏家となりました。後輩の訓練に努力した教え子が沢山いて、この学校のオーケストラは、世代を越して、偉大な音楽家であり、勇気ある人物、イリヤ・テイテルバウムの精神的遺産を伝えていきました。 

聖書には、人々の記憶の中に再生した者は、再び死に脅かされる事はないと記されています。ミンスク市のチジョフスキー墓地で、彼の墓を見つけました。不思議なことに、彼が1967年の2月に葬られた時、天も涙したのでしょうか?ミンスクの町は、豪雨にみまわれ、その模様が、ベラルーシの国立映像アルヒーフに保管されていました。

それでは、ビデオ作品、"音楽の先生"をご覧下さい。  

=ビデオ作品、"音楽の先生"を映写=


ラウレンティー・ソン 脚本家・映画監督 

1999.07.01. 東京にて

翻訳:  岡田一男 東京シネマ新社   

連絡先: 国内162-0843 東京都新宿区市谷田町2-7-302 
東京シネマ新社 phn:03-3269-6751 fax:03-3269-6746 e-mail:tciokada@tka.att.ne.jp  

現地 
Song Cinema Inc. 34-64 Mametovoy Str., Almaty, Rep. of Kazakhstan, phn: +7-3272-326428


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ラウレンティー・ソンの講演
下中記念財団創立30周年記念国際シンポジウム(1992)

アリラン文化センター(川口市)(1993)

MILE在外朝鮮人国際シンポジウム(1993)

和光大学 (1999)

北海道大学 (1999)