ソ連崩壊後の中央アジアの朝鮮人



ラウレンティー・ソン

日時:1999年6月29日(火)午後6時〜8時
北大スラブ研究センター4階大会議室(No.423)



ご列席の皆様、まず北海道大学と、この会で私がカザフスタンと中央アジア在住の朝鮮人の現状について、お話しできるよう、ご尽力下さった宇山智彦さんにお礼を申し上げることをお許し下さい。

1. 現状 

CIS諸国に居住する朝鮮人55万人の内、約半数が中央アジアとカザフスタンに居住しております。ウズベキスタンに15万人、カザフスタンに10万5千人、さらに残りの共和国に5万人と言われておりますが、ウズベキスタンの状況を考えるとこの数字は、やや疑問にも思えます。ペレストロイカ以前の時期から朝鮮人は、国家建設に加わってきました。特にカザフスタンではこの事が顕著です。研究者、財政専門家、法律専門家など国の重要な職に朝鮮人が就いております。たとえば、憲法裁判所の裁判長、科学アカデミーの副総裁をはじめ、都市や地区レベルの裁判官や治安機関の職員にも朝鮮人が、かなりおります。

新首都アスタナの刑事警察の署長も朝鮮人です。商業銀行の首脳部にも朝鮮人は数多くいます。しかし、ウズベキスタンの状況は、それと比べると良くありません。イスラム・カリーモフ大統領の厳しい独裁体制は言うに及ばず、管理主義と国家建設の改善にもかかわらず、市民生活の全般にわたる民族主義的傾向の高まりに朝鮮人の国外流出が続いています。彼らの流出先はロシア、カザフスタンならびにCIS諸国外の遠外国であります。

ビデオ作品
 
トルコ風の結婚」に挿入されているニュース映像の抜粋  1989年撮影ウズベキスタンにおけるメスヘチ・トルコ人の難民

しかし、最も苦況にあるのはタジキスタンの朝鮮人です。南北の地方閥と親アフガニスタンのイスラム原理主義に基づく拡張主義勢力の止むことのない武力衝突の中で、コントロールの効かなくなった無政府状態のもとで人命は軽んじられ、朝鮮人をはじめ異民族の立場は全く無視されています。

目下仕上げ中のソン・シネマと東京シネマ新社の共同作品 「校長先生」の抜粋から タジキスタンからの難民の朝鮮人女性のインタビュー

キルギスタンの朝鮮人の状況は、カザフスタンのそれと、ほぼ同様であります。キルギスタンは、国の面積や人口がカザフスタンと比べてはるかに小さいことを除くと、厳しい問題についても共通点が多いからです。

トルクメニスタンの朝鮮人については、ほとんど公式情報がありません。この国は、スターリン体制に比べられるような独裁者ニャゾフ大統領の元で、情報面では極端な鎖国状態になっています。信頼できる非公式の情報によれば、この国は天然ガス資源が非常に豊かであるにもかかわらず、国民の生活状態は非常に厳しく、平均月収がたった5米ドルほどにすぎず、知識人を主とする、非トルクメン人のロシアやカザフスタンへの流出が続いていると言われています。私企業はほとんど存在せず、わずかな数の工業施設は国の予算で操業しています。唯一の良いことと言えば、住民にとって天然ガスの使用が無料であり、税金がきわめて安いと言うことでしょう。


2. 工業生産と農業に従事する朝鮮人

残念ながら工業及び農業に従事する朝鮮人の数は急激に減少しています。これは企業が閉鎖されたり、注文が止まったり、財政状態が急激に低下したりと効率が極めて悪くなったからです。またもう一つの否定的な要因として、主としてロシア系住民のロシアへの、またドイツ系住民のドイツへの、労働力の国外への大量流出が挙げられます。朝鮮人に関して言えば大部分のものは、いまだ残っていますが、企業は活動を停止し、人々は失業を余儀なくされたのです。農業においても同様ですが、こちらは99年間の土地使用権に関する新しい共和国法の制定によってかなりの可能性が見えてきたのですが、多くの希望者が開業資金の不足や、非先住民族出身者への土地取得への目に見えない
障害が立ちはだかっています。失業した人々の行き先は何処へ行くのでしょうか? 彼らは速やかに小規模商業とサービス業に吸収されていきます。韓国、中国、アラブ首長国連邦、トルコなどへの商品買出し旅行が急発展を見せました。しかし近年、商品への輸入関税の増額がこの商売の利幅を低下させています。

このため最近の流行は、小さな朝鮮料理屋、喫茶店や朝鮮風家庭料理屋の開業に移行し、これは相当な成功を見せています。何十年にもわたる多民族環境下での朝鮮人の存在は、中央アジアとカザフスタンの他の民族にも食生活の上で強い影響を与えてきたことも成功の一因です。まあ、唐辛子の良く効いた朝鮮風のザクスカ(前菜)は、ロシアの強いウォッカにも良く合うと言うことでしょう。農村部に残った朝鮮人は現在、それほど広くはない自留地で自家用の野菜や果物を栽培することに忙殺されています。そして余った農産物をバザールと呼ばれる市場や、鉄道駅に持っていき、売れたらその金で、米、パン、バター、塩や砂糖を購入するのです。アルマトゥのセイフーリン通りの両側には、
偶然手にはいる仕事を求めて沢山の失業者が列をなしているのですが、私は何時も注意して見ているのですが、その中に朝鮮人が混じっていると言うことは一度もありませんでした。

朝鮮人はいかなる複雑な状況下においても、驚くべき適応能力を発揮しています。これは、旧ソ連における離散朝鮮民族の特殊な歴史的宿命が与えてくれたものなのだと私は思うのです。良い方への変化も見られます。この四月にカザフスタン朝鮮人協会は、カザフスタン大統領に対して、朝鮮人が住民の多数派を構成しているアルマアタ州カラタル地区のアキム(知事)に、法律家であり、強力な組織者として知られる朝鮮人を指名してくれるよう要請しまました。これに対して大統領はこの地区に対して国庫補助は出せなくなっても構わないかと条件を出しました。それは構わない、自分たちで金は集めようと協会は応じました。こうして誕生した知事は、米、ネギ、日常雑貨など農業生産を二年間で軌道に乗せるという約束をしました。つぎに協会はウラルとシベリアといったロシア北部に売る計画を立てました。こうした計画が成功し、他の地域や他の民族の模範になってくれればと私は願っています。

キルギスタンでは未だこのような積極的な試みは見られません。

ウズベキスタンでは、未だに、賃金の支払われるあても定かでない集団農場で働いています。ウズベク人自身が元々遊牧民ではなく、定住民で有能な農民であるということも、理由であると思います。しかしカリーモフ大統領の国内経済政策の思惑からでしょうが、農産物のウズベキスタン国外への持ち出しが禁じられているのです。このため農民の苦しい労働の成果である農産物が腐ったり、痛んだりしています。

タジキスタンの朝鮮人は、もうほんの少し、およそ1500人ほどしか残っていません。彼らは生産どころではなく、自分や子供たちの命を救うため、この国からの脱出の機会をさがしています。

トルクメニスタンの朝鮮人が、今どうなっているのか?これは情報も無く、よく判りません。ただ彼らの生活は楽では無かろうと想像できるだけです。


3. 教育と科学

ソ連崩壊以後に離散朝鮮民族が受けた最も大きな痛手は、教育と科学にかかわるものです。というのは、朝鮮人が、ソ連において大学、専科大学、技術学校などで高等ならびに中等の専門教育を受けた有資格専門家の数において1000人中283人と、ソ連で第2位を占めてきたからです。(第1位はユダヤ人の1000人中、500人以上なのですが、イスラエルその他先進国への大量移住の結果を見れば、500人という数字はだいぶ怪しくなっていると思っています。)ところが近年の朝鮮人学生の大学や中等専門学校における数は激減しております。このことについてはロシアとカザフスタンの朝鮮人コミュニティーは警告を発しています。また就職において高等教育を受けている者の方が無い者より有利であるという現実が、事態の改善をもたらすでしょう。しかし、若者がそのことに気がついても、新しい障害が立ちはだかっています。それは学費の高騰です。平均して1000米ドル以上の学費が必要です。日本でお考えになれば何でもない数字でしょうが、我々にとってはかなりの金額です。ともかく親たちは何とか自分の子供たちに教育を受けさせようと努力をしています。金のある人々は 子供を韓国、ドイツ、それから何故かアメリカに留学させています。

カザフスタンとキルギスタンの朝鮮人の大きな関心に韓国語と英語の学習があります。韓国側も大いに努力していてミッション系の団体が、無料の教育活動を行っています。非朝鮮系のカザフ人、ロシア人、キルギス人などの若者の韓国語習得には目を見張らされるものがあります。語学を修得した若者たちは、それを足がかりに外国留学の道をさぐります。そしてそれを実現する者もいます。しかしながら、教育の危機は去っていません。失業した親の元では、子供たちは自分のためにも、両親のためにも金を稼がねばならず、彼らにとって今は、大学の椅子に座ってる場合ではないのです。以前なら、年長者たちが常に我々に向かって、教育のみが我々を完全な人間にすると、暗示にかけていたものですが、今の彼らは彼らの子供たちが学業のかわりに商業活動やとにかく生活を支える金を稼ぐことを黙認しています。

最も深刻なのは、科学の分野です。CIS諸国の科学者の間ではかなり多くの朝鮮人研究者が存在しています。彼らの中には、博士、博士候補、講師、教授さらにはアカデミー会員もいます。彼らは、数学、法学、建設、歴史学、化学、建築学、農学など実に様々な分野での研究業績や発見によって政府の表彰や国家賞を受けてきました。これらの人々は、主に老年層を構成する人々です。残念なことに経済危機によって、カザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタンでは、国家が経済的に科学アカデミーを支える事を止めてしまいました。

学術研究機関の研究者は10分の1から20分の1に削減され、幾つかの研究施設は全く解体してしまいました。また新しい研究課題の発注も、収入もなくなってしまった施設が相次ぎました。各共和国指導部の関心の無さによって基礎研究は全く沈滞しています。応用研究も生産活動の低下によって、意味をなさなくなっています。

キルギスタンの大統領は、彼自身が優秀な原子物理学の専門家として知られたアカデミー会員で、国家の中での学問研究の重要性などは熟知している人ですが、信じられぬスピードで崩壊していく国の経済の下では、なすすべが無いのです。今年の初め、カザフスタン大統領、ヌルスルタン・ナザルバエフは大統領令を発して、将来の科学研究と技術開発の重要性を指摘しましたが、次々発生する新しい経済問題と、大統領令の財政的な裏付けの無さが、それを紙上だけのものにしてしまっています。

ということで、朝鮮人の学者も他の民族の学者もオリンピア山上の静けさを保つことはできず、浮き足立っています。人文科学の以前からの蓄積のある分野では、学者が自分の家にひきこもって研究を続けていますが、他の技術的な装置を必要としたりフィールド研究を要する学問分野では、状況はどうしようもありません。一つだけはっきりしていることは、科学の再興は、国の経済]状況の活発化によってのみ可能だと言うことです。怖いのは、経済の活発かが遅れればカザフスタンと中央アジアの科学が絶望的に立ち遅れてしまいかねないと言うことです。非常に哀しいことですが、これが現実です。


4. 文化と芸術の分野での社会運動
旧ソ連の朝鮮人住民の内で、もっともまとまりを持っているのが、カザフスタンのコミュニティーであることは、多くの人が認めるところです。国内の各州単位に朝鮮民族文化センターが設けられ、それらは国の南の首都、アルマトゥに本部を置くカザフスタン朝鮮人協会に統合されています。これらのセンターは、朝鮮人に関する社会的な権利問題と共に文化の普及も取り扱っています。1993年から政治的迫害をうけたものの権利回復進められていますが、この問題の中には極東、ボルガ沿岸、コーカサス地方からの少数民族の強制移住も入っています。このような復権に関する大統領令が出されたのはロシアとカザフスタンのみです。1956年以前に生まれた全ての朝鮮人は、完全な政治的復権を果たしました。日本帝国主義のためのスパイ行為や、その他の犯罪に関する嫌疑が公式に解かれたのです。私自身も、今年の1月11日に復権証明書を受け取りましたが、非常に複雑な気分になりました。というのも自分としては、これまで自分が公然とした差別を受けたという自覚は無かったからです。より年配の人々の中には、政治的復権を別の感情で受け止め、敬虔な気持ちでその青い手帳を眺めていました が、その気持ちは私にも理解できます。

文化センターは地区(ライオン)とか州(オブラスチ)レベルでの歌謡音楽祭や、朝鮮語(ハングル)とその文法の知識を競うコンクールを開催したり、旧暦による新年の祝いや収穫祭など旧い祝祭日の復活などを行っています。一方、協会は、国レベルのより大きな経済問題などに力を注いでいます。既に朝鮮人がまとまって住んでいるカラタル地区の実験については、先ほどご紹介いたしました。

ソ連の崩壊が離散朝鮮人の芸術活動を花開かせたことは、驚かされます。政治的検閲の廃止は、大部分の国ぐにで創作家に自由を与え、経済的には乞食のような状況でもはっきりと自己を表現した作品を発表しています。

ウズベキスタンには非常に優れた画家がいます。カザフスタンには優れた文学者と音楽家がいます。ただ、CIS内部では唯一の朝鮮劇場は現在、大変な苦境にあります。この劇場は1932年にウラジオストックで組織され、全ての朝鮮人と共にカザフスタンに強制移住させられてきたのです。それ以来67年も活動しているにもかかわらず、自前の劇場を持てずにいます。しかし、この問題は遠くない将来に解決できるものと私は楽観しています。

CISにおける、−とりわけカザフスタンと中央アジアの離散朝鮮人の芸術の性格について考えてみたいと思います。父祖の民族的な祖国、朝鮮の遺伝的な特色を保持しつつ、我が文学者、美術家、作曲家たちは、ロシア、カザフ、ウズベクなどの文化の影響を受容してきました。またロシア語で書くという行為で、世界芸術との繋がりを持ち、それは良い意味で、彼らの創作にその反映が見られます。時間がありませんので個々の作家、美術家、作曲家や演奏家の名前や作品名を挙げることはいたしません。

名前を挙げることは、好奇心の対象にはなるかも知れませんが実際に現物の作品が紹介され無い限り、名前の紹介は余り意味がないと思うのです。しかし、彼らの作品は実際に、注目に値し、現代の最高の芸術の息吹を伝えています。アルマトゥに本部を置くCIS創作活動家ギルドの結成は、才能ある人々を糾合して、彼らの創作構想を実現させ、アメリカや日本、中国など東アジア諸国の芸術家や、それらの国々で活躍する離散朝鮮人創作活動家とその作品を紹介していくことを目指しています。

5. そして最後に

私のこの短い報告に中央アジアとカザフスタンの朝鮮人は耐え難い酷い状況に置かれていると言う印象を持たれたかも知れません。しかし私が誠実に現状を語ろうとした努力した結果であると信じていただきたいのです。我が国の現状を知っている方々、考えて下さっている方々は、残念ながら多くが本当だと、私の発言を肯定して下さると思います。中国の賢人は、劇変する時代の変わり目には生きたくないものだ!
と語っています。そして将にソ連の崩壊以後の我々はそう言う時代に生きているのです。そして生き抜こうと望んでいます。最後に全く個人的なことを。もし私の主観的な発言を聞いて、皆さまが私が自分の国を否定的にのみ見ていると感じられたら、それは誤った見方であると指摘いたします。

私はカザフスタンのステップに生まれ、そしてカザフスタン、ウズベキスタンとロシアで教育を受け、困難に打ち克ってまともな人間になろうと努力をしてきました。またこの苦労の多い大地との結びつき無しに自分の一生を考えることは出来ないのです。そのことに関連して、最後に哀しくもありまた、非常にエステティックな冗談を一言喋らせて下さい。

肥溜めの中にいる2匹のウジ虫の−父と子が、ある日、その表面に這い出してきました。

息子が空に大きな黄色い板を見て聞きました。父ちゃん、あれはなんだい?

あれは、太陽ってもんだ、息子や。

あの水平線に見える緑色っぽいのは?

あれは草だな。

その向こうは森だろう。

ふーん、すばらしいなあ、と息子は叫びました。

でも、なんで僕たち、この肥溜めに住んでるの?

ここが、息子や、俺たちの祖国なんだよ。

聴衆の皆さま、如何に我が国が困難にあろうとも、我々はそこに暮らしており、我が祖国なのです。私は人を信じやすく心の広いカザフ人たちに対し、誠実に対してきました。そして我々朝鮮人は、そこで暮らし、全ての困難や不幸を共に苦しみ、将来のこの国の成功や繁栄を共に喜びたいと願っているのです。

私はこの世に生を受けたときからカザフスタン国民だったのですから。



ラウレンティー・D・ソン 脚本家・映画監督 6月14日、東京にて

訳 岡田一男 東京シネマ新社


掲載開始 1999.08.09.


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ラウレンティー・ソンの講演
下中記念財団創立30周年記念国際シンポジウム(1992)

アリラン文化センター(川口市)(1993)

MILE在外朝鮮人国際シンポジウム(1993)

和光大学 (1999)

東京大学 (1999)