失われた本
カラー35mm 28分 1992年
ソン・シネマ社(カザフスタン共和国アルマトィ)
製作脚本・撮影・監督: ヴァシリー・パルフョーノフ
あらすじ:
オロチ この民族には、自らの純粋な形での言語、精神的・文化的伝統、舞踊、音楽、そして何よりも民族的な生業の形が残されていない。この70数年の間に、それら全てが消え去ったのだ。今日では、身分証明書の民族欄に空しく残る「オロチ」という記入のみである。そして、本当に遺伝子形としての「オロチ」が残存するのかすら定かではないのだ。ただ、このエスニック・グループの祖先の歴史的な居住地のみが判っている。この様な民族の終焉の原因は、旧ソ連の大多数の小さなエスニック・グループに共通している
掲載開始 2000.01.11.
ナレーション・テキスト
かつて、ここにはデ・カストリ入江から、北へボッチ川の日本海に面した河口までの東海岸に、一つの民族が暮らしていた。フランスの航海者、ラペルースは1786年にこの地を訪れ、彼らが自らをオロチと名のっていること、「オロ」とは鹿を意味することを書き記している。
オロチの発祥の地は、現在ソフガヴァニ(沿海州)で知られる彼らがハジと呼んでいたインペラートルスカヤ・ガヴァニである。そこから彼らは、沿岸一帯に分散して行った。夏の初めから秋の終わりまで、ボッチ、コッピ、ジュアンカ、ダッタ、フトゥなどの河口で魚を漁っては、日干し魚にしていた。
彼らは宿営地でキャンプ生活を送っていた。彼らの名字は、それらの場所の呼び名に後ろに「カ」をつけて、コッピンカ、フトゥンカ、アクンカなどと呼ばれていた。オロチはシカを狩り、魚を漁ったとき直ちに宿営地の全員に分配した。他人に敬意を払い、自分の家族との分け隔てがなかった。彼らは他人の苦しみを自分の苦しみと受けとめた。花嫁は、許嫁の家に5−6才で連れてこられて、同じ家族の子どものようにして育てられた。
ここに、旅行家、アルセーニエフに宛てた一人のオロチの手紙がある。親しい友の、アルセ
ーニエフ大尉さん!あんた、誰よりもわしらの生活を知っとられる。昔、わしらの一族が沢山いたことも、今どんなに少なくなってしまったかってことを。あんた、わしらの天幕に泊まって、一緒に焚火にあたられた。わしらの食べ物を食べて、わしらのキセルで煙草を吸った。あんたは、わしらのうちで一番経験あるものを連れられて、一緒に密林を探検し、川を下り、山を横切った。フトゥで遭難しかかって死ぬかと思ったときに、オロチのウリマグダ(小舟)が駆けつけて助かったことをもちろん、覚えてらっしゃるだろう。親しい友の、アルセーニエフ大尉さん!わしらの暮らしは、ほんとに悪くなっちまった。だが、商人どもは、まるで蜘蛛みたいに這回ってる。全くの安値で毛皮を持って行く。わしらのことを人とも思っていない。酷い商人がいて、イヴァーシカ・アクンカのことを、えらくぶった叩いた。あいつは死ぬかも知れないよ。なあ、アルセーニエフ大尉さん!あなた、このことを偉い人たちに知らせてくれ。オロチが、ほんとに酷い暮らしをしていることを。さようなら、親しい友の、アルセーニエフ大尉さん!あのフントィ川の岸辺に立っているあんたが斧で刻み目を削ったドロヤナギ
の樹みたいに、長生きしなされや。 ナムンカ、アクンカ、コッピンカ、エメンカ、ムミンカ、ビシャンカから。
オロチには「失われた本」という伝説がある。その本には人間の暮らしに関する定めの全てが書き込まれていた。今の言葉で言うなら、オロチの暮らし方を定めた独特の聖書の様なものだった。伝説によれば、あるときオロチを追ってきた敵が、この本を奪い取り、遠くの海へ持ち去った。すると、突然の嵐が巻起こり、ウリマグダ(小舟)は岩礁にたたきつけられた。オロチは本を奪い返しその濡れたページを岩の上に広げて乾かし始めた。ところが、今度は風が、本の聖なるページをさらって行った。それ以来、オロチのもとには様々な人々が、様々な決まりを持って来るようになったと...
ヴラディーミル・クラディエヴィッチ・アルセーニエフの手記から:
ここ、ボッチの河口からほど遠くないところで、軍事測量技師、グロセーヴィッチは、略奪にあって、食料も衣料もなく、置き去りにされた。彼は、海岸の地形調査に派遣されていたのだが、自分の連れている兵隊どもに、略奪され置き去りにされたのだった。それは1871年の事だった。彼がもう死のうかというとき、何者かが彼の口に少しばかりの水を注ぎ込んだ。それはオロチであった。彼らはグロセーヴィッチを看病し、治してくれた。そして間もなく、彼は二人のオロチといるところを保護された。その後、白髪頭の老人になって、再びボッチの川に立ち至ったとき、彼は岩に頭を当て永いこと哭いていた。グロセーヴィッチは、一年近く一緒に過ごした人々のことを愛し、良く覚えていたのだった。
地元の住民は全て追い散らされた。母親は死んだ。父親は、もっと前に死んでいる。グリーシャのところでも母親は死んだ。我々はここに住んできた。我々は何処にも行かなかった。そして今も暮らしている。
オロチは昔は沢山いたんですか? 沢山いたよ。カフェイヌイから、デ・カストリまで何処にだって
今は、それがほんの少しになってしまった?
今は、ほんの少しだ。 オロチには、ボリシェビキが持ってきた別の本の定めが、理解できなかった。人間も、獣たちも、鳥たちも平等に使っていきた水や、空気に境界線を引くような土地の分配について理解できなかった。
70年経って、官庁の抵抗はあったが、他の北方民族と同じくオロチにも伝統的な自然利用のための太古からの土地がコッピとフトゥとたった二つの河口だけ返却されることになった。いったい何処に沢山暮らしているって?
戦後、鉄道が建設された頃は人が沢山いた。わしは、軍隊に採られることになったとき、ウリマグダ(小舟)にのって行ったもんだ。オロチヨンのウリマグダにね。フトゥを返そうとはしてないよ。オロチにフトゥを返したって?一番良い土地は、ロシア人がとっちまったんだ。すっかり荒しちまって、駄目になった何もない土地をオロチに返したんだ。彼ら、モスクワの連中は、オロチが森を利用して暮らしていると思っている。
でも、森はロシア森林生産局が管理していて、オロチなんかいやしない。だから、今もロシア人の猟師が追払らわれずにいるんだよ。ここからだって、もうすぐオロチは、みんな追い払われるよ。鉄砲を没収される。ナイフを没収さ
れる。それじゃオロチは、どうやって狩をしろ、と言うんだ?魚を没収され、罰金を取られる。ロシアの猟師には、カービン銃。俺たちにはなんにも。俺の息子は、投獄もされたけど、罠も、なんにも貰えなかった。
オロチは、どうしようもなくてみんな散って行った。ダッタへ、コッピへ、ソフガヴァニへ、ヴァニノにも、ウラルまで流れて行った者もいるし、モスクワに行った奴だっているよ。オロチは全く消えちまうよ。年寄りが死んで、それでおしまい。
グリゴリー・エゴーロヴィッチ・アクンカは、真実を語ったのだ。この駄目になった土地には、上部機関が派遣してきた連中に乱獲されて、もはや毛皮獣は全くいない。だが、そんな獣が再び現れても、オロチにはしとめられないだろう。彼らは狩の仕方を忘れてしまったのだから。全ソビエト時代を通じての道徳的・真理的空白状態は、犯罪とアルコール中毒を一般的なものとしてしまった。現代の若い世代が学んだ寄宿学校は、従来とは全然違う人間を創り出したのだ。この寄宿学校には、家にいられない子どもたちが収容されている。父親と母親が離婚した。すると彼は、父親にも、母親にも要らなくなってしまうのだ。こうして子どもは、両親と切り離されてしまう。寄宿学校で学ぶ10年間、一度もやってこない両親もいる。子どもたちも会おうとしない。
時どきやって来るのは、ぐでんぐでんに酔っぱらった母親だからだ。ティクタムンの場合がそうだっ
た。母親は苦情を言いに来たのだそうだ。ヴィチャ・アクンカの母親もやってきた。両親は節度を失っている。だが、7才になると子どもを寄宿学校に連れて来る。最近、ある男が子どもを連れてきた。男はロシア人で、子どもは混血児らしい。
どうして、子どもを連れて来たんですか?
女房はオロチだ。とすりゃあ俺の子どもはオロチだ。オロチなら優遇処置を受けられる。みんな、なんとか子どもを寄宿学校に入れようと大変さ。子どもを切り離されて、心の痛まない母親などいるのだろうか?いま、彼らは子どもを育てることを忘れてしまった。ただ一つ知っているのは、国が子どもを教育すること、彼ら自身にはどんな義務もなく、ただ子どもを産む権利だけがあると言うことだ。この写真には寄宿学校の最初の生徒たちが写っている。寄宿学校は、良かれと言う善意から設置されたが、不幸をもたらした。混血の女の子が連れてこられた。父親はロシア人、母親はオロチで、ナムンカ・リタと言う名前の子だ。女の子は聞かれた。「あなたのお母さんは誰なの?」。
そこで、はっきりしたのは、ただ母親の名がラーヤということだけだった。女の子は母親に、どこかの駅に置き去りにされたのだった。そこで彼女は、孤児院へ送られた。そこで女の子は母親が彼女を探したが見つけられなかったのだ、と思い込んだ。子どもたちは、こう思い込みやすいのだ。「お母さんは、私を探したけど見つけられなかったんだ。」 そこでリタは聞いてみた。「私、お母さんの処に行っても良い?
」 「もちろんさ、行っといで。」 そこで彼女は、病院に入院している母親の処へやってきた。少女は、夜なか中、一睡もせず、朝一番の列車に乗ったのだった。そして、母親に会ったら何を話そうかと、考え続けていた。ところが、母親の処へ行ってみると、母親は、何もなかったかの様に平然と、一緒にいる男に言ったのだった。「あら、リタが戻って来ちゃった。」このように、両親がいるのに寄宿学校に置かれている、子どもたち。これは、わが人民の悲劇である。
アルセーニエフは、フトゥ川を左岸へ渡ろうとしたとき、彼を二人のオロチが助けた。私の祖父、プロコフィー・マクシモヴィッチ・フトゥンカと、もう一人はアレクサンドル・ナムンカだ。二人はアルセーニエフをハディ港まで送って行った。今、小企業「オロチ」が設立されたが、実際には仕事が無い。昔、我々が暮らしていたように、生活させて貰いたい。何で、我々は二流の人間だと言うことに成るんだ?
どうしてそうなんだ?
我々のためだと言う土地は、どうしてこう狭いんだ?
狩にしろ、漁にしろ、良い場所は、みんなロシア人に持ってかれてしまった。我々は、自立不可能だ、できっこない。我々は見捨てられ、自尊
心を失った民族なのだ。我々は長いこと、オロチの現状を伝えている国勢調査の結果を探そうと試みた。しかし、最後にその調査報告が現実と一致しないことが判ったのだ。オロチと言う名は、もはや身分証明書の民族名記入欄にしか存在しないのだ。現実にはオロチの言葉を話す者はなく、歌も知る者がなく、踊りもなく、習俗も、生業も、むろん行政的領域もなく、読み書きするものもなく、生活を律する定めもなく、あのオロチの本は失われたのだ。
そして、わがロシアの国家は平然と言うだろう、「オロチはいない、それなら何も問題は無いのだと。」