記録映画 M.V.フルンゼ記念実験農場
OP'TNOE KHOZYAISTVO IM M.V.FRUNZE
脚本・監督:ラウレンティ−・ソン
撮 影:Yu・パク/V・パルフョーノフ
録 音:I・ザヴィヤーロワ
編 集:Ye・ツォイ
進 行:O・リ/S・ソン
ソン・シネマ社制作 1991 28分
ロシア語版と韓国語版があります。視聴希望者は tciokada@tka.att.ne.jp へ。
《作品の背景》 この作品は、独立国家共同体=CISに参加している新興共和国、カザフスタン共和国南東部辺境のステップ地帯で、1941年に生まれた朝鮮人作家・記録映像プロデューサー、ラウレンティー・D・ソンの演出による。
日本の朝鮮併合の結果、多くの朝鮮人が、朝鮮半島からロシア領沿海州に流出を余儀なくされた。沿海州で生活をはじめた朝鮮人の多くは、植民地主義反対と民族平等を指向するロシア十月革命の理想を熱烈に支持した。しかし、スターリン指導下のソビエト政権は満州・朝鮮からの日本軍国主義の浸透を恐れ、1937年秘密裏に、沿海州の18万5000人におよぶ全朝鮮人の中央アジアへの強制移住を行なった。ソ連秘密警察NKVDにより強行されたこの暴挙は、第2次世界大戦期のボルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、チェチェン人など、「罰された8つの民族」の強制移住政策の先駆けとなった。
この作品は、ソンの生まれ故郷であるウシトベの「実験農場」に焦点をあて、強制移住と人工的に形成された多民族社会における「共生」の問題を描き出している。ウシトベは、首都アルマトゥから北方へ約
300Km、サリ・イシコルトラウ砂漠の縁をバルハシ湖に向かって流れる、カラタル川流域にある。ここには1920年代に建設されたシベリアと中央アジアを結ぶトルクシブ鉄道が通っている。1937年秋、沿海州の朝鮮人は、シベリア鉄道とトルクシブ鉄道を経由して、カザフスタンと中央アジアに移送された。ウシトベは、現在では中ソ和解後建設された新たな国際鉄道、ウルムチ=アルマトィ線の国際急行列車の停車駅ともなっている。
ナレーター:
私たちは、撮影対象にカザフスタン共和国タルドゥイ・クルガン州カラタリスキー地区を選びました。半世紀ほど前まで、ここはソロンチャクとロシア語で呼ばれる塩気混じりの不毛のステップ砂漠で、その真ん中に小さな鉄道駅、ウシトベがありました。
字幕: ソン・シネマ制作記録映画
M.V.フルンゼ記念実験農場
ナレーター:
人の暮らす村に、「実験農場」という呼び名以上の散文的な名前をつけるのは、ちょっとむずかしいと思います。ましてフルンゼ1記念だなんてでも、ここの住民たちは実際に「実験的な」農業をやっています...
まず農場長のパク、ニコライ・アレクサンドロビッチさんの話を聞いてみましょう。
パク所長:
カラタリスキー実験農場は、もともと1929年に南カザフスタンでの米の種子開発を目的に作られたものです。1977年に、周りの農場とも統合され、実験農場として非常に強化され、M.V.フルンゼ記念実験農場と命名されました。発足当時、
100ヘクタールほどだった米の作付面積が、現在では1400−1800ヘクタールとなっております。耕地面積で申しますと150−200ヘクタールだったものが、3500ヘクタールになっており、米に関しては全てが水稲であります。
ナレーター:
この農場では、労働がまるで信仰の対象になっています。次々と家が建てられ、結婚式が挙げられ、子供が生まれ、世代が替わっていきます。あの「全ての時代を超えた全
人民の偉大な領袖」は、神にも見放された塩気混じりの、この不毛のステップ砂漠で、信じがたい困難の中でも人間が復活し、生きつづけていくのだと予想したのでしょうか?
彼には、きっと別の目的があったに違いありません。より主観的に述べるのが許されるなら、スターリンは、この地にあらゆる民族を投げ込んで壮大な実験を試みようとしたのではないのでしょうか...
としたら実験農場という呼び名は、悲劇的な性格を帯びています。悲劇とは、ここへ移送された人々の半分以上が、ここへ来る途中−あるいはここで、飢えと寒さと病に倒れていったからです。しかし、人間の生きようという意欲は偉大でした。人々は掘立て小屋を築き、この土地の苛酷な気候条件にも慣れました。何としてでも生き延びろと!
その愚かな実験は、1937年の秋に始まりました。まず最初の実験材料にされたのが朝鮮人でした。彼らは極東地方に暮らしていました。(1930年代半ばの)国勢調査では、ソ連全土の朝鮮人人口は30万ほど2でした。それが移送年後の1939年には、10万と少しになっていたのです
朝鮮人の古老:
どうしてわしらがここで暮らすことになったかって? 当時のわしらにはっきりしていたのは、それが国の政策だってことだけだった。わしらはもちろん憤慨したさ。でも国がそう決めちまったんだ。国は、わしら朝鮮人を信用しなかったんだよ。(1937年)9月に、もうすぐ移住だと告げられた。そして本当にそうなった。どんな風にここまで辿りついたのかって?
あらゆる酷い目に合わされたよ。カラガンダ(北東カザフスタン)に着いた頃、もう冬になっていた。その後、「ここで農業をやれ」と、送られてきたんだ。国がそう決めたんだよ。でも、当時のここは人が住めるような土地ではなかったよ。
やがて戦争が始まった。わしら前線に送ってくれと志願したんだが、朝鮮人は信用できないから、前線は駄目だといわれた。そのかわり労働戦線に送ってやるというんだ。例の労働軍3だよ。あーあ、あの労働軍での経験は、全く酷いものだった。ようやく7年後の1947年7月に戻ることができたんだが、わしには朝鮮生まれだという問題もあってね。それで、毎月2回も尋問に呼びだされるんだ。労働軍での暮らしって、まるで髪の毛で首をぶらさげられているようなもんだった。NKVD4(内務人民委員部)への呼びだしは、戦後になってもまだ続いたんだ。
ようやく8月になって少し落ちついたんだけれども どんな暮らしだったって? 「ぶん殴られても耐えろ! 盗まれても黙ってろ!」だ。わしも当時は若かった。あの時、自分の若さを発揮していたら、多分− 頭が肩から落ちてたろうなぁ。どんなに悲しみに耐えたか、口では言いあらわせんよ。手紙は、一応はやり取りできたが、ただ「どうだ、元気か?」と、それだけさ。他のことを書くのは一切禁じられていたんだよ。
でも朝鮮人は、みんな良く働くんでね。活動分子だと認められたよ。党に入ることだって可能になってね。入党してたら、人生も随分違ったものになったんだろうが!...
わしも一度は入党を勧められたんだが、愚かにも入らなかった。
わしにはいま、娘が一人、息子が三人、男と女の孫が五人づついるよ。彼らはみな、朝鮮語を知っとることは知っとるんだが婆さんが生きとった頃は、朝鮮語でしゃべっとったが、亡くなったら途端にロシア語だけになっちまった。
Q でも、朝鮮語はわかるんでしょ。
わかるには、わかるんだが、話すのを恥ずかしがるんじゃ。ロシア語の方が楽なんだそうじゃ。全く馬鹿なことになってしまったが、どうしょうもない。
朝鮮人の子どもたちとの会話:
Q 全然、朝鮮語は話さないの?
そんなことないよ。お爺さんとは話すよ。
Q と言うことは、わかるってことだね。
ああ、わかるよ。
Q ねえ、アリョーナさん。学校卒業したら、君はどうするつもり?
私、特別学級にいるから、そのまま単科大学に進学するわ。
Q どんな学科に?
幼稚園教育学科よ。
Q どこの?
タルドゥイ・クルガン市の。
Q その後、ここへ戻って来るつもり? ええ。
Q 朝鮮へは、行ってみたいって思ったことある?
とても魅力的なことだわね、でも。
Q 行ってみたいってことだね?
もちろん。
Q もうすぐソウルへの直行便も飛ぶってさ。ところで、君は学校卒業したらどうする?
フルンゼ5 に行こうと思ってる。工科大学に入るんだ。
Q どうして、フルンゼなの?
あそこにも親類がいるんだ。楽だと思うんだ、最初のうちはね。
Q 君たち、兄弟仲はどう?
普通だよ。
Q お姉さん、君をぶったりしない?
あら、あの子の方が、私をぶつのよ!
農業技師:
このカラタリスキー玉葱の開発者はファン、アレクサンドル・イワノヴィッチとキム、コンスタンチン・セミヨノヴィッチです。アメリカのジョーンズ種を個別選択法によって改良したのです。現在、わが農場の玉葱種子は、ソ連の全15共和国の全てで栽培されております。国外でも、キューバ、ブルガリア、ルーマニアに出荷されております。この玉葱の種は、ソ連の種子改良事業が放置され、全く死んだような状態から創り出されたものです。当農場では、1985年に第一級の種子を生産するため、特に種子改良部門を開設するまでになりました。カラタリスキー玉葱は、ソ連全土に普及しましたが、私はこのことについては、朝鮮人が大きな役割を果たしたと見ております。
彼らはウクライナ、アルタイ地方、中央ロシアなどなど、あらゆるところへ赴く際に、カラタリスキー玉葱の種子を持っていきました。もちろん種子生産だけでなく、住民のための大根、ウイキョウ、ピーマン、ナスなどの生産にも力を入れております。種子生産においては受粉作業が重要であります。ところがこれは機械化が不可能で、全くの手作業を要求されます。しかも受粉作業は、特定の時期に行なわないと良い種子ができないのです。
ナレーター:
ボルガ・ドイツ人の強制移住6 につづいて40年代後半になってもコーカサスのトルコ、クルド、チェチェン、イングーシ、カラチャイ、ギリシャ人などが、ここへ送り込まれてきました。驚くべきことは、人々が強制移住の当時も、その後にも、彼らがここに送らた理由に興味を示さなかったことです。大部分の人々は、沈黙したままでした。全能のNKVDの恐怖を前に、人々はこのことについて、ただ沈黙させられただけでなく、考えることすらしないように仕向けられたのです。そしてまだ当時は、「偉大なる領袖」への限りない信頼も残っていましたから
ナレーター:
この強制移住という野蛮な実験は、どんな動機で行われたのでしょうか?スターリンは極東地方、沿ボルガ、コーカサスなどの少数民族の忠誠心を信頼していなかった。それで第2次世界大戦時のソ連国境の安全確保のため、強制移住を行ったという説もあります。例えば、朝鮮人は日本軍国主義のためスパイ行為を働くという疑いで移住させられたというのです。ブリュッヘル将軍7は自分のメモに、「人相では、朝鮮人と日本人は区別がつけられない。全く困ったものだ」と記しましたが、これが直ちに上層部の、中央アジアとカザフスタンの奥地に朝鮮人を移住させるという決定になったのです。十月革命当時の朝鮮人たちの貢献も、内戦期の極東地方ソビエト権力確立の時期に見せた彼らの勇気も、20−30年代の土地開墾での労働も全く無視されたのです。
それでは、コーカサスや沿ボルガの他の民族の場合は、どうだったのでしょう?出征兵士たちがヒットラー・ドイツとの厳しい戦いにようやく勝利して故郷に帰ると、家はもぬけの空で、家族たちは誰もいませんでした。帰郷兵たちは家族を捜し求めて、カザフスタンと中央アジアの全土を放浪せざるをえなかったのです。
畑仕事をする老朝鮮婦人:
この犬はチェブラーシカ(肉団子)っていうのよ。この子が、病気になったんで畑へ連れてきたの。そしたら自分で何の草だか食べて元気になったわ。 可愛いわね。見かけは悪いけど、子どもたちはこの子のこと好きだって
極東地方ではね、私たちはノボネージノに住んでました。
Q 強制移住のことは、覚えてられますか?
酷いもんだったよ。私はたった6歳だった。お父さんは途中で死んだし、お母さんは他の親類と一緒に別の列車に載せられちゃって、お母さんとは、それ以来生き別れ。それで私はここで一人ぼっちで暮らしているの
収入? 収穫が良ければ、良い収入という具合い 働かない朝鮮人なんて、あんた方も会ったことないでしょ? もう私もいい歳だけど、畑仕事をちゃんとしなかったら、みんなが何というだろうかね? もう6年間も誰の命令でもなく、自営で働いてるの。夕方、仕事が済むと、子どもたちもやってきて、家事を助けてくれるわ。もう孫が7人もいるのよ。でも還暦のお祝いはまだしてないの。いちばん若い息子が今年、大学を終えて結婚したら、子どもたちみんなで私の還暦を祝ってくれるって ここには、あらゆる民族がいるわね。でもみんな一つの家族みたいに暮らしてる。ほんと、みんな面白い人たちよ。今のところ、問題なんてないわ。将来どうなるかって? そんなのは、誰にもわかんないよ。
ナレーター:
「天才的な実験家」は、どんな結果を期待していたのでしょうか? 疑いもなく彼は、民族間紛争の発生と、激化を期待していたのです。実際、共同生活の初期にはそれがありました。私もそれをはっきりと覚えています。貧困、飢え、政治的無権利と将来への展望の欠如が、特別移住者同士の衝突の原因になりました。時には悲劇が起こり、犠牲者もでました。
ナレーター:
この農場の子どもたちは、小さい時から大人の労働を見習います。10才から12才で、もう小学生たちは、作物の栽培の仕方も、機械の動かし方も知っています。
ナレーター:
この農場では、牛の飼育に独特の方法を編みだしました。その方法は、仔牛の「寒所放置飼育」と呼ばれています。偉大なる領袖の特別移住者に対する「寒所放置」とは、ちょっと違って、生まれたばかりの仔牛は、寒い場所に放置されるのですが、しかし腹いっぱい餌を与えられ、よく世話をされます。仔牛飼育係: 寒所放置は牛の健康を自分から強くさせるみたい。昔は、仔牛が生まれるとすぐに暖かい畜舎に入れたんだけど、今は寒所放置するわけ。生まれて2−3日後には、もう屋外に出してしまうのよ。死ぬことはほとんどないわ。あっても1%とかでも、働いてる私たちには厳しいわは。なにしろ冬は零下30−35度になるんだから。手の指がよくバケツに貼りついちゃったりするんだから。人間には大変だけど、でも仔牛には良いようね。
ナレーター:
この家には、チェチェン人のシャヒードさん一家が住んでいます。1944年にチェチェン人が強制移住させられたとき12才でした。いま、シャヒードさんには、ジョハラ・ドゥダーエフ将軍8にも、勝るとも劣らぬ誇り高い5人の美男子の息子と、私たちが「カザフスタンのミス・チェチェン」と名付けた美人の一人娘がいます。
Q シャヒードさん! あなたは、ここにチェチェン人が移住させられた当時を覚えてられるそうですね。どんな風だったか、お話いただけませんか?
シャヒード:
詳しいことは、思い出すのもいやだなぁ 辛い時代だったよ。飢え、寒さ、殆ど全員がチフスにかかったよ。でも、一番叶わなかったのは不公平だったことさ。ここからウシトベまで、まっすぐだと5キロほどなんだが、回り道をさせられると9キロにもなる。バザールまで5キロの近道を行くのを許さないんだ。違反したら投獄した上、懲役20年だって脅かされて
ナレーター:
ここには、同じく特別移住者だったクルド人の家族が住んでいます。彼らは、戦争が終ってからここへ送られてきたのです。ところで、コーカサス地方からの民族丸ごと移住は、1949年まで続けられました。ということは、スターリンは、ソビエト国境の安全確保の考えてこの計画を実施したのではなく、ただ諸民族を支配しやすくするため、こんな迫害を行ったのだということになります。
クルド人(トルスン): ある夜、突然に移住命令が出されて24日かかってここへ着いた。多くの人間が車中で死んでね。死体がごろごろしてたよ。それをまるで丸太みたいに積んでさそして、一グループがチムケントで降ろされ、俺たちはここへ送り込まれた
そして今日まで働きつづけてるんだ。勉強はできなかったよ。
民族間紛争は、ここにはないよ。今のところ、みんな仲良くやってるよ。将来どうだかは、わからんがね。
Q ファティマさん! お孫さんたち、将来何になったら良いと思います?
学者がいいねぇ。
Q 誰が、学者になったら良いと思うんです?
その女の子が。男の子の方も、学者になってくれたらねぇ
Q あなたご自身は、学校の方はどうでしたか?
4年生までしか行っていないのよ。
Q ずいぶん短いですね?
そういう時代だったからね 。両親を助けなければならなかったし この子どもたちが、学者になってくれたらいいのになぁ
ナレーター:
実験農場の幼稚園は、いくつかの農場のちょうど中間にあり、それら農場の子どもたちばかりか、町の子どもたちも受け入れています。幼稚園の養育は無料で行われています。
「全ての時代と民族を超えた偉大な領袖」が、生き延びられやしまいと思いつつ、人々を不毛のステップに放り込んだ実験は、はっきり失敗だったといえましょう。人々は生き延び、しかも人間的に生きています。科学においては実験に正確さが要求されます。全ての現実の要素を考慮にいれた正確さが特別移住者に関する実験は、迫害された諸民族の気高い人間性という、最も大切な要素を計算に入れなかった、ずさん極まりないものだったのです。
タイトル: (ゆっくりと上がってくる)
脚本・監督 ラウレンティ・ソン
撮影 ユーリー・パク ヴァシリー・パルフョーノフ
録音 イリーナ・ザヴィヤーロヴァ
編集 イェフゲーニア・ツォイ
進行 オレーグ・リ スタニスラフ・ソン− 完 −
翻訳: 岡田一男
<訳 注>
1 M.V. Frunze ロシア革命・内戦期の赤衛軍司令官、キルギスタンのピシペク(現ビシケック)で生まれた。ソビエト時代、キルギスタンの首都ビシケックはフルンゼと呼ばれていた。
2 沿海州の37年当時の朝鮮人人口は185,000人だったといわれる。 ソ連の人口統計については、数次にわたる国勢調査が行われているが、長らく国家秘密であったばかりか、スターリン時代には調査結果そのものに対し、さまざまな政治的思惑からの介入があった。公表された数字は、政治的な手を加えられたものが多いことを留意しなければならない。また、数字と現実の間のズレにも配慮する必要がある。最近では30年代の国勢調査そのものが、どうおこなわれたか、いかなる介入と改ざんが行われたか? の学問的な研究も進められている。国勢調査では必ず民族籍と母語が調べられている。
3 NKVD(内務人民委員部)の指揮下にあった軍隊式の労働班。 実態は、強制収容所の奴隷労働や、戦後の日本軍捕虜の強制労働と大差なく、主にシベリアでの森林伐採、道路・鉄道建設などにあたった。
4 NKVD(内務人民委員部)は、ロシア帝国の秘密警察(オフラナ)を引き継いだソ連の秘密政治警察組織。 NKVDはスターリン時代に異常拡大し、たんに反体制派を取り締まるだけでなく、ソビエト帝国に組み込まれた少数民族の動向を監視・威圧する一方、運河建設、鉄道建設、原爆開発など、さまざまな「社会主義」国家プロジェクトを囚人の奴隷労働によって推進するようになった。1940年代には強制労働産業省のような実態を持っていた。KGB(国家保安委員会)は、その後身である。
5 この場合のフルンゼは、キルギスタンの首都ビシケックの旧称。
6 ソビエト政権の圧制に苦しんでいたウクライナやコーカサスの多くの少数民族は、ナチス・ドイツのソビエト侵攻にあたって、当初は解放軍の到来と歓迎した。だが、ナチスの実態がソ連以上に酷かったので、まもなく彼らはパルチザン闘争に転じた。しかし、戦後、スターリンは復讐と反抗を不可能にするため、様々な少数民族の「自治」行政組織を解体し、民族全体を丸ごとシベリアや中央アジア・カザフスタンに追放した。これら「罰された8つの民族」にはクリミア・タタール、ボルガ・ドイツに加え、コーカサスのチェチェン、イングーシ、カルムイク、バルカル、カラチャイ、グルジアのメスヘチ・トルコがあげられる。スターリン時代が終ると、大部分の民族は復権したが、大量のスラブ系市民が送り込まれたボルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人の二つの共和国とメスヘチ・トルコ人の自治区は、今日に至るまで再建されず、複雑な問題を残している。
ボルガ・ドイツ人: もともと、プロイセンはロシアの隣国であった。第2次大戦後、ソ連が強奪したカリーニングラードは、旧称がケーニスベルヒ、プロイセン王国の戴冠式を行う由緒ある都であった。18世紀、ロシアのエカテリナ女帝(彼女自身がドイツ人であった)の時代に大量のドイツ系農民・職人をロシアに招き入れ、南ロシアのボルガ沿岸辺境部に植民させた。ボルガ・ドイツ人は、その末裔たちである。解体された沿ボルガ・ドイツ自治共和国は、今はサラトフ州の一部とされているがボルガ左岸(東岸)にあった。今でもその名残の、マルクス市やエンゲルス市がある。 ドイツ系住民は全ロシアに散らばっていたので、多くが沿ボルガ地方に集中していたと誤解してはならない。
また同じドイツ人としてナチスの実態の良く判っていた彼らは、他の民族のような幻想をナチスに抱いていなかった。従って対独協力は全く不当な言いがかりであった。ドイツ系住民の公称の数字は、極めてあやふやで75万から国勢調査のの195万、さらに4百万という数字まである。これには、第2次大戦以降の迫害の酷さから、ドイツ系であることを名乗らない人々が多くなったことも原因している。現在、彼らの多くが強制移住させられたカザフスタン・キルギスタンやシベリアに居住するが、毎年15万前後、一日平均ジャンボ機1機分のドイツ人が、旧ソ連からドイツなど西側に流出している。現状では民族的なアイデンティティーの確立が望めないという絶望感と、将来への展望の欠如が国外流出に拍車を駆けている。ドイツ人問題は、農業と工業において最も熟練した労働力を失って行く現状を食い止めることができない、旧ソ連=ロシアの政治社会風土の貧困さを象徴的に物語っている。ドイツ人の多くは、カザフスタンにおいては朝鮮人と並んで最も経済的に豊かで、教育のある民族グループである。ドイツへ行けば、経済的にも、社会的にも現状よりさらに苦しくなることを覚悟の上で、彼らは去
っていく。
タタール人: 旧ソ連のイスラム系住民の中で、最もヨーロッパ化した人々である。全人口では630万。数的には旧ソ連の民族の中で第6位を占めている。ボルガ中流域のカザン周辺にいるカザン・タタール(人口170万)は、ロシア連邦との条約締結を拒んでいるタタールスタン共和国(人口363万)をつくっている。 スターリンに潰されたクリミア共和国のクリミア・タタール人(人口20万)は、1944年にウズベキスタンなどに民族全員が、強制移住させられた。彼らの権利は未だ回復されず、ロシアとウクライナの間でのクリミア帰属問題も絡んで、複雑な問題をはらんでいる。
このほか、カスピ海のボルガ河口デルタ部にアストラハン・タタールが知られるほか、西シベリアや中央アジア、カザフスタンにも昔からのタタールがいた。モンゴルのロシア侵入時の実際上のロシア支配者はタタールであった。「タタールのくびきの時代」以来、ロシア人との間には根強い対立感情がある。トルコ人: ここで挙げられているのは、強制移住の対象になったグルジアのメスヘチア地方のトルコ人(人口9万)である。ユーラシア大陸全体にトルコ(チュルク)系の民族は、広く分布しており、現在のアナトリア地方をもって「トルコ」と理解すると危険である。
もともとのトルコ人の源郷は、カザフスタンのあたりか、もっと北の方という説もある。広い意味でのトルコ語(チュルク諸語)の話し手は、旧ソ連ではロシア語につぎ、CISの5つの共和国、ロシア連邦の5つの共和国の主要言語となっている。
クルド人: トルコ、シリア、イラク、イラン、アルメニアの国境山岳部に2000年以上にわたって暮らしている。12世紀以来、民族自決と自らの国、クルディスタンを求めてたたかっている。だが、いずれの国の中央政府も彼らを冷淡に扱ってきた。クルドの全人口は、500−600万といわれる。旧ソ連では、おもにアルメニアとアゼルバイジャンにいた。クルドの大部分はスンニー派のイスラム教徒だが、イランにはシーア派教徒もいる。旧ソ連内の人口は、11万。
チェチェン人: 7世紀ごろからコーカサス山脈北斜面の山間部に暮らすナフ語系の民族。16世紀ごろからイスラム教を信じるようになった。18世紀末以来、併合を企てたロシアと激しく闘ってきたことで知られる。人口75万。
イングーシ: チェチェンに隣接しているコーカサス山脈北斜面の山間部に暮らすナフ語系のイスラム教徒民族、人口18万。
カラチャイ人: トルコ系言語を話す黒海に近いコーカサス山脈北斜面のイスラム教徒民族、人口13万。
ギリシャ人: 旧ソ連には、34万もの大量のギリシャ系住民がいる。黒海沿岸地方にはギリシャ全盛期には、沢山の植民都市があった。セバストーポリ、シンフェローポリなどロシア語で語尾に「ポリ」とつく都市名は、ギリシャ語の都市−「ポリス」もことである。 このほか、トルコ系言語を話すコーカサス山脈北斜面のイスラム教徒民族、バルカル人(人口9万)や、カスピ海西岸のステップ地帯と、最も西に位置するチベット仏教徒であるカルムイク人(人口14万)が、対独協力などの名目で民族丸ごと強制移住の仕打ちを受けた。
それでは何故、カザフスタンが強制移住の対象地として選ばれたのだろうか? 一つにはカザフスタンがシベリアとならぶロシアの伝統的な流刑地であった。もともと人口密度が非常に低い上に、20年代後半に始まった集団化政策の失敗、カザフ遊牧民の激しい抵抗によって、百万を超すカザフ人の(人口の1/4)人命が失われた直後の空白を埋めようとしたものであったことが考えられる。ソビエト流図式主義解釈では、中央アジア・カザフスタンの集団化に対する抵抗を封建地主階層・反動的イスラム宗教指導者の反抗とするが、伝統的な遊牧生活の形態である、家畜の個人所有を無視したことに起因している。
7 V.K.Blyukher(1890-1938) ロシアの革命家で極東で活躍した軍人。 ソ連最初の元帥で、29年以降スターリン大粛清の犠牲になるまでソ連「極東軍」司令官として、極東経営の最高責任者であった。ソ連でいう極東地方の概念は、シベリアよりもっと東ということで、ウラジオストックを中心とする沿海州や、ハバロフスク州・アムール州、チュコートカなどを指す。
8 J.Dudaev コーカサス北部のチェチェン共和国大統領。 空軍の爆撃機パイロットから転じた強烈な民族主義者で、ロシアからの独立を主張、ロシアとの連邦条約締結を拒んだ。チェチェン・ロシア戦争の最中にロシア軍のミサイル攻撃で殺された。