『コレサラム(高麗人)』は、1993年に、はじめてHI8カメラでラウレンティー・ソンが、自ら撮影も行い編集も
行った作品である。2002年4月に日本語スーパー版を制作することになり、作者の強い希望で、それまでの
「コリョサラム(高麗人)」を「コレサラム(高麗人)」に改めた。以下は出版物の転載なので、初出のままになって
いる。

『コリョサラム(高麗人)』 記録映像 ラウレンティー・ソン作品 
劉孝鐘+岡田一男(訳・解説)

初出: アジア研究 第10号 pp97-111、1995年9月 発行:和光大学総合文化研究所 アジア研究・交流教員グループ


【解説】
旧ソ連の諸共和国には現在、45万人前後の朝鮮人=コリョサラム(高麗人)が住んでいる。
ロシア共和国に11万人弱、中央アジアのカザフスタン共和国に約11万人、ウズベキスタン
共和国に18万人強というように、これら3つの共和国にわりとまとまった数が住んでおり、
キルギスタン、タジキスタン両共和国にもそれぞれ1〜2万人、その他の共和国にも数百から
数千人がいるなどして、朝鮮人の居住地域はほぼ全共和国に散らばっている。このうち、
サハリン在住者やそこから極東その他の地域に移住した4〜5万人を除けば、ほとんどは
スターリン体制によって1937年に極東地域からカザフスタン、その他中央アジア諸国に
強制移住させられた人々とその子孫である。

この37年の強制移住がもたらした損害と悲劇は実に大きなものであった。これによって
朝鮮人は、民族的抑圧や差別にさらざれ、その他のざまざまな悪条件を強いられながら
長年にわたって築いてきた社会的、経済的生活のための諸基盤を一夜にして失い、
民族の故地から遠く離れた、未知の荒れ地に放り出され、一から再出発せねばならなかった。

人的な犠牲も甚だしく、移住の途中や移住先に着いた直後に亡くなった人々の数は、
全体18万人の1割から2割にまで上ったと言われている。ソ連の崩壊によってもたらされた、
各共和国を単位としたさらなる分断の新しい悲劇は、この延長線上にあるものである。

37年の強制移住は、このように30年代以未の旧ソ連朝鮮人の運命を決定づけたもっとも
大きな要因であったが、しかしこうした惨禍は朝鮮人だけにとどまらなかった。ソ連における
民族まるごと移住の嚆矢をなすこの朝鮮人の強制移住は、第2次世界大戦の開始後、
他の諸民族が同じくシベリア、中央アジアに強制移住させられるさきがけとなり、移住先に
おける朝鮮人の血まみれの建設の努力は、後から送られてくる諸民族のための受け皿とも
なったのである。

ここに翻訳、紹介する映像記録は、このようにして強制的、人工的に造られた多民族社会に
おける「共生」の現実を捉えている。ここでは、もっとも先に強制移住させられたことから、
朝鮮人は地域や農場のいわば「基幹民族」となり、朝鮮語は諸民族間の意思疎通言語、
民族間交際語となったユニークな状況が、原住民のカザフ人、先住民のロシア人、朝鮮人の
家の養女として極東から一緒に移住させられてきたウクライナ人、後から移住させられてきた
クルド人というように、それぞれ異なった背景を持つ四人の人々のみごとなほどの朝鮮語の
語りによって巧みに描き出されている。4人は、制作者のラブレンティー・ソンの質問に
答える形で、みずからの生い立ち、そのなかでの朝鮮人、朝鮮語とのかかわり、思い出、
現在の暮らしぶりなどを語っているのである。 作品の舞台となっているウシトベは、カザフ
スタンの首都アルマトィから北方へ約300キロ離れた、サリ・イシコルトラウ砂漢の縁を
バルハシ湖に向かって流れる、カラタル川流域にある農村の町であり、この作品の制作者
ラブレンティー・D.ソンの生まれ故郷でもある。 1941年にここで生まれたラブレンティー・
ソンの父母は、極東沿海州から1937年に強制移住させられてきた朝鮮人。ソンは、ここで
小・中学校を出て、いくつかの学校や職業を転々とした後、60年代はじめ、モスクワの全ソ
国立映画大学に進学し、脚本科で学んだ。卒業後、カザフスタンの首郡アルマアタ(当時)
のカザフフィルム撮影所に就職し、劇映画のシナリオライター、つづいて映画監督として働いた。

映画関係の仕事とならんで文筆活動もすすめ、ソ連における最初のロシア語による朝鮮人
作家たちの短編棄『太陰暦のページ』などを編纂している。ペレストロイカのなかで独立採算
制企業の設立が認められると、カザフスタン作家同盟傘下に独立映像プロダクション「Tui i Ya
(君と僕〉」をおこし、抑圧されたソビエト市民、少数民族に的を絞った記録映像の制作を精力
的に進めた。企業私有化が可能になった1991年未に、「Tui i Ya」を継承する「Song Sinema」
を設立し、活動を続けている。日本にはいままで2度きている。1回目は、1992年11月に、
下中記念財団主催の国際シンポジウム「大きな文化は小さな文化から何を学べるか−
国際先住民年に向けて」出席のため(「ClS在住朝鮮人は何を失い、何を守り、何を得たか?
を報告、この直後に、映像作品とともに在日朝鮮人の作家李軟成との対談がNKで紹介された)、
そして2度目は、93年11月に、大阪発行の在日朝鮮人関係の情報誌『ミレ』の招待を受けて
実現した。 在ソ朝鮮人をテーマにしだ作品としては、この『コリョサラム』と同様の問題意識の
もとに、同じくウシトベ所在の国営農場の歴史と現実を描いた『M.V.フルンゼ記念実験農場
(1991年)の他に、『全ソ高麗人協会プレゼンテーション」(1990年)「白いチョウチョウ』
(1993年)がある。前者は、ペレストロイカのなかでの朝鮮人の民族的結葉の成果として
1990年5月に結成された、全連邦的組織の創立大会の模様を撮ったものであり、後者は、
カザフスタンの朝鮮人少年少女からなるアンサンブル団の活躍ぶりを記録したもの。現在は、
岡田が主宰する東京シネマ新社と協力して、NHKの仕事として、中央アジア・カザフスタン
の動物の世界を撮る作業を行う傍ら、ひきつづき、ウズベキスタンの朝鮮人社会の歴史的
現実をあとづける映像の記録にも取り組んでいると伝えられている。 さて、この作品において
4人の人々によって操られる朝鮮語=コリョマルは、中国の延辺朝鮮族自治州で使われている
朝鮮語と同じく朝鮮半島東北部の咸鏡道地方の方言をもとにしたものである。これは、旧ソ連
や延辺の朝鮮人の多くが咸鏡道からきたひとかその子孫であることによるものである。しかし
移住以来長期にわたってそれぞれ現住国の言語と接触し、それらから影響を受け、さらには
いわゆる「標準化」の結果、そのままでは互いに通じないところや、この作品にも見られるように、
現住国の言語を借りなければ表現しにくいところも多く生じている。 それだけに翻訳作業も
たやすいものではなかった。幸いにインタビューの記録をラブレンティー・ソン自らがロシア語で
整埋した「台本」が提供され、おおいに役だった。そこで作業は、この台本をまず岡田が日本語に
訳し、これらを参照しつつ、もとの映像を見ながら劉が岡田の訳稿に手を加えていく方法で進めた。
ソンによるロシア語「台本」は、かれがコリョマルとロシア語は言うまでもなく、カザフ語もできる
人だけにおおむね正確なものと思われたが、そのなかでも明らかに聞き取りを間違っている
ところやロシア語、日本語へと移される過程でニュアンスがずれてしまっているところも散見され、
さらにはいくつかのセリフを一つにまとめるか内容を短縮してロシア語にした箇所もあったりして、
作業は思うようには進まなかった。最善を尽くしたつもりだが、まだ自信の持てないところも
少なくない。なお、途中、朝鮮語以外の言語で喋られているところには下線を引いたうえ、
冒頭にその言語名を記しておいた。そして[ ]のなかは私による補充および補注である。

カザフスタン、ウズベキスタンなどにおけるコリョマルをめぐる状況は依然として厳しいものと
いえる。公教育においてコリョマルの教育が廃止されて久しく、またその間の都市への人口移動、
農村部の都市化などによって、コリョマルを操れる人々の数はだんだんと減ってきており、
農村地帯の居住者であっても、若い世代はろくに喋れず、ロシア語による生活を普通として
いるのが現状である。その一方で、近年多く進出してきている韓国系企業などへの就職を
期待して、新たに「韓国語」を学習する人々が増えている。各国において急ピッチで推し進め
られている現住・多数民族を主体とする民族国家化が言語生活面にも及び、少数民族の言語を
学習し、活用する空間はむしろますます狭められていくような状況のなかで、こうした「韓国語」
学習ブームは、全体としての朝鮮語の再生を促進させていく可能性を持っている反面、旧ソ連
朝鮮人社会の固有の歩みのなかで培われたコリョマルの衰退にさらに追い打ちをかけることに
なりかねないという一面も同時に持っているものと思われる。 この作品には、こうした複雑な
状況へのラブレンティー・ソンのやるせない思いも込められているような気がする。(劉孝鐘)


記録映画『コリョサラム(高麗人)』
ソン・シネマ社制作、アルマトィ、1993年、44分20秒

あらすじ
1937年から1948年にかけてスターリンの迫害により、カザフスタン共和国タルドゥイ・クルガン州
カラタル地区へ極東、沿ボルガ、ウクライナおよびコーカサスの少数民族が強制移住させられた。
最初にここに送り込まれたのは朝鮮人で、かれらはこの地域のあたかも基幹民族となった。その
後に送られてきた他の民族は、速やかに朝鮮語を覚え、ロシア語とともに、朝鮮語がこの地域の
諸民族間の意思疎通言語となった。この作品にはさまざまな民族の4人のひとが記録されている。
かれらは、今日の旧ソ連朝鮮人の多くが朝鮮語(咸鏡道方言)をそれほどにはしやべることができ
ないほど巧みに話しているのである。


クレジット・タイトル:ソン・シネマ作品
プロローグ女性の歌声(朝鮮語)

月に2、3度便りをくれるよりも、3ケ月に1度でも会いに来てくれたなら。
エヤ エヤ 遊びはいいね、舟遊び行こうよ。


ドキュメンタリー作品コリョサラム

 道 
葱坊主 
中庭を老人が歩いている 
女性の声:もちろん、ジャガイモも植えるし、キャベツも植えて
キムチもつけるし。キュウリ、トウガラシもちょっと、
夏場に食べるいろいろな野菜も、いまだいたい
(ロシア語で)3〜400坪、それでも少ないんだけど、
仕方ないさね…

私は他人の家で育ったんだよ。
それで10歳のとき遠東からここに連れてこられて、
それからずっとここで暮らしてきた。働いてね…

子猫

作者の声:息子や娘はたくさんいるの?
マリアという名の女性、クローズアップで

マリア:娘が5人に息子が1人。

作者の声:みんなどこに住んでいるの?

マリア:ここには3人の娘と息子が住んでいるよ。
娘1人はカプチャガイに、もう1人はウシトベに住んでいる。

作者の声:ご両親はどちらに?

マリア:父も母も、まだ遠東にいるときに亡くなっていってね。
私は他人に育てられたんだ。コリョ[高麗人]の
家庭が養女にしてくれたんだ。
かれらのところには子どもがいなかったもんでね。
よく、他人の子を養子にすると自分の子どももできるんだって。
私は孤児だったし、その家ではあたしを養女にした。
そしたら本当に実の息子ができたんだよ…

中庭の子猫マリア、夫とともに中庭の木下に座っている

マリア:その家は金海キム[金]哥[=氏]であった。

作者の声:あなたの名字は?

マリア:私の名字はコヴァレンコ。

作者の声:マリアさんですよね。

マリア:そう、マリア。

作者の声:(ロシア語で)父称は?

マリア:ニコラエヴナ。

作者の声:じや、コヴァレンコ・マリア・ニコラエヴナですね。

マリアのクローズアップ

マリア:それでコリョサラムが移住させられたとき、私も一緒に…

作者の声:(ロシア語で)どんなふうに移住させられたか、
当時のことは覚えていらっしゃるんですか?

マリア:(ロシア語で)それは、37年の、確か9月だったね。
農作物を取り入れることもできずに…
私は自動車なんか生まれてはじめて見たんだけれど、飛行機も
たくさん飛んできてね、自動車に乗せられて、それから列車に移された。
家畜とか、肥料や石炭なんかを運ぶ貸車だよ。貸車の真ん中に板で
境を作って、両側に3家族ずつ詰め込まれてね、真ん中にストーブがおかれてた。
そして列車は出発して、そして到着した…爺さんや、どこに着いたんだったっけ?

夫の声:北カザフスタンのチャインタン駅。

マリア:そこへ私らを連れてきてね、そこで越冬。不思議なところでね。
どの扉も外にではなく内にしか開けられないんだよ。雪と風で扉が堅くなってしまってて
外に出られなくなっちやうの。その地方には草一本生えていなかった。
雪がようやく解けて春になって、ここにたどり着いた。私たちはこうして
ここに落ちついた。いまは年金で生活してるからね。ここで死んで行くわけ。

作者の声:ここではどんな仕事をされてきましたか?

マリア:いろんなことをやってきたよ。豚小屋を掃除したり、牛の乳搾ったり。
それに(ロシア語で)葱を植えたり、苦労多かったよ。

夫のアップ夫:ある時、市ソビエトから呼び出しを受けた。行ってみると
黒い目[黒眼鏡?]の男たちばかりでね。移住だと言い渡されてね、
その夜、貸車が当てられて積み込みが始まった。

マリア:この人は遠東からきたのではない。

夫:プラゴヴェシチェンスクから来たんだよ。

全景までズーム・バックしながら

作者の声:移住の際、たくざんの人が亡くなられた。
とくに老人や子どもに犠牲が多かったということですね。

マリア:ああ、ここへくる途中、そしてここに来てからも、どんなに多くの人が
死んだことかしら…ここに来るとき、トラクターでまとめて5台の荷車を引っ張っていて、
それがひっくっ返って大怪我をしたり、死んだりしたんだ。土穴を掘って、
そこに掃き寄せるように埋めたんだけど、本当にすさまじい数であった。
一家族から2、3人の死者が出て、死人を運び出せないほどであった。

作者の声:マラリアが流行ったといいますね。

マりア:それから、腸チフスに苦しんだ。それから、マラリア…みんな、
そんな病気のことは知らなかった。蕁麻疹がでたり、熱が出たり、すごい震えが起こってね。
マラリアにもいろんなものがあるんだね。
小さい子どもはみんな死んでいったよ。もう言い表せないよ。

マリアのクローズアップから中景にズームバック
マリア、夫とともに中庭の木下に座っている

マリア:私には娘5人と息子がいて、(ロシア語で)もう17人の孫がいるよ。
よく子どもたちがきて言うのよ。この前も一人が来ては、(ロシア語で)
「おばあちゃんねえ、明日は誕生日なんだけど、お小遣いいくらぐらいくれるの」って。
昔は、100ルーブリ紙幣ってずいぶん価値あったよね、
覚えてるんでしょう。もう孫の内、長女の息子たら2人が結婚しているのよ。
2番目の娘も自分の娘を嫁に出しているし。いまは経済的に本当に大変。
だけどおばあちゃんということで仕方がないよ。せめていくらでもやらないと。

作者の声:お孫さんたちはチョソンマル[朝鮮語]は知っていますか?

マリア:みんな知っているよ。自分の母たちに教わるし、[娘たちの]亭主はコリョサラムだし、
お姑さんもそうだし。みんなコリョサラムの家に入ったからね。

作者の声:家庭で大人たちがチョソンマルをしやべる。そうすれば子どもたちもできるようになりますよね。

マリア:うちの子どもたちはね、私と暮らしているから、親と一緒にいるから、学校に通うときもロシア語を
知らなかった。

中庭の子猫
マリア:私の最初の亭主はもういないの。

作者の声:その方もチョソンサラム[朝鮮人]でしたか?

マリア、夫マリア:ええ、チョソンサラムだった。

作者の声:いつ亡くなられたんですか?

マリア:(ロシア語で)70年代です。かれとの間に6人の子どもができた。この人(いまの夫)との間には
子どもはいない…

全景から家族写真のアルバムヘズームアップに

作者の声:お孫さんたちは、よく訪ねてきますか?

マリア:よく来るよ。床の拭き掃除なんかしてくれたり、娘たちもね。

夫:みんな近くに住んでいるからね。

マリア:タ方に来ては、母さんご飯食べたのかと心配してくれたり、何か買い物をすると必ずみんなやってくる。

作者の声:それはいいことですね。
マリア:子どもたちはみんないいの。嫁もね。彼女はロシア人だけど。

作者の声:それで彼女は、チョソンマルは?

中庭のマリアと夫
マリア:半分は理解しているね。そして、しゃべろうと努力しているよ。

作者の声:家では、会話の中心がチョソンマルなんですね。お孫さんたちはどうなの?

マリア:私は彼らとコリョマル(高麗語)で話します。ときどき聞き返してくるのよ。
(ロシア語で)「おばあちやん、いまなんて言ったの?」って。ああ、悪い子だね、
耳が悪くなっちまったのかって言ってやるの。私はお婆さんでマウジェマル[ロシア語]より
コリョマルの方が楽なんだから、仕方がないのよ。

作者の声:(ロシア語で)あなたのご兄弟や姉妹の方はどこにいらっしやるんですか?まさか、
生き別れのままっていうことはないでしょう?

マリア:(ロシア語で)いや、生き別れっていうことはないよ。母は私しか生まなかったのです。
私は1人っ子で、親類もいないんだよ。

作者の声:(ロシア語で)コヴァレンコって、ウクライナの名字ですね。

マリア:そんなこと、わからないんだ。でも子どもを生んだとき、村ソビエトで結婚登録をすることになって、
聞かれたんですよ。キムって名字を取られますかって。でも私は、やめてください、両親がくれたコヴァレンコ姓
を続けますって答えたの。

部屋のソファーに横たわるマリア

マリア:足が不自由でなかったら、亭主に台所のことさえさせなかったらいいのだが…

夫、マリアの傍らに座って

作者の声:大変ですね。

夫:仕方ないさ。2人で暮らしていたら、互いに助け合うのが当然さ。

作者の声:何を料理されてます?

夫:ご飯も炊くし、スープも作るし。

作者の声:味噌はどこから手に入れられますか?

夫:白家製だよ。

マリア:婆さんが作るんだよ。

夫:そう、婆さんがね。

壁に飾られたカーペットから座っているマリアにパンして

マリア:そこの30リットル入りの大鍋4つ、それでもl年分の味噌には間に合わないんだよ。子どもたちが
ほしいっていうから。醤油も鍋一杯煮るんだがね。嫁さんの食欲すさまじくってね。10りットルのガラス瓶
もってやってくる。すごい欲張りだねって、笑ってやるんだけど…それでも足りないんだって。下の娘の
ところは家族5人だけども、やっぱり10リットルでも足りないという。2番目の娘は5、6リットル。もう1人の
娘も同じくらい。私ら爺さんと2人は喰えるだけ喰ったって大したことない。ウシトベの娘もね、お母さんの
醤油はすごくおいしいって、いってくれる。で、彼らにも3リットル瓶。カプチャガイの娘にも2リットル瓶。
醤油も3、4鍋煮ることになるのかな、全部で100リットル以上になるからね。みんな子どもたちのためだよ。

私たちにはお金はあまり意味がないんだよ。私には息子は1人しかいない。2人の息子の孫がいるし、
娘たちの孫はもう数には入れない。その孫ももう20歳だ。ガールフレンドもいるんだよ。いつ結婚するのか
はわからないがね。孫に背広買ってやろうと思って、いまお金貯めてるんだ。そのこと考えて生きている。
お金どうやって作る?そうね、醤油作って売ったり、年金のやりくりしたりで、何とか食べてるよ。

作者の声:醤油は大豆から作るのですか?

マりア:もちろん、大豆からだよ。大豆は、収穫の時、買うときもあるし、あるいは(ロシア語で)運転手たち
からもらったりもしている。[ウオッカ]1リットルあげると大豆1袋くれる。いまは大豆1キロに50ルーブリ
だとかl袋に1000ルーブリだとかいっている。私、年とってこんなにみすぼらしく見えてもメジュ[味噌玉
麹]を作っているんだよ。大豆は、1リットルのものをあげると(ロシア語で)「婆ちやん、1本だな。」すると
そう、1本だといってやるの。鶏の餌も同じ。他に買えるところはないんだ。それで、酒の好きなあいつらに
lリットルあげると1袋もってくる。それで、鶏も飼えて、やりくりしているけど、いろいろと出ていくのも多い
んだ。いつ孫が結婚するかは知らないけど、そのガールフレンドは大学で勉強しているんだ。トムスクだか、
オムスクだかでね。2年生だったか3年生だったかなんだけど…

夫:3年生で、トムスクにいるんだよ。

マリア:いつ結婚式だかわからんけれど、生きてるうちに孫にちゃんとした良い服着せてやりたいもんだね。

マリアのクローズアップからズームバックして花のなかにいる彼女

 クムィスベクの中庭、友人たちといる

作者の声:(カザフ語で)こんにちは!

クムィスベク:(カザフ語で)こんにちは。

作者の声:(カザフ語で)人々が言ってますよ。とても朝鮮語が上手だって。

クムィスベク:(カザフ語で)どうしたんですか?

作者の声:(カザフ語で)テレビです。

クムィスベク:(カザフ語で)何か事件でも?

作者の声:(カザフ語で)テレビのための取材です。

ミテレギの道をカザフ人の少女が子どもたちと歩いている

クムィスベク:(カザフ語で)ビグーリャ、誰が家にいる?

少女:(ロシア語で)パパ、ママ。

クムィスベク:(カザフ語で)グリサラは、あなたの家にいる?

少女:(カザフ語で)彼らは帰ったわ。

子馬を連れた馬

作者の声:あなたは何というお名前ですか?少し話しましょう。

クムィスベク:私の名前はクムィスベグです。

作者の声:名字は?

クムィスベク:サガディエフです。

作者の声:おいくつなの?クムィスベク:40。

作者の声:40ですって?クムィスベク:ええ、40歳ですよ。

作者の声:生まれたのはどこですか?(ロシア語で)故郷はどちらですか?

クムィスベク:私はここで生まれて、ここで暮らしてきたんですよ。

作者の声:お母さんやお父さんもみんなこちらですか?

クムィスベク:ええ、ここですよ。ここで働いているんですよ。学校で先生をやっています。

作者の声:コリョマルはわざわざ習おうとしたのか、それとも自然に身についたのですか?

クムィスベク:自然と覚えてしまったのですよ。コリョサラムと一緒に住んできたし、子どもの時
から彼らとつきあってきたからね。(ロシア語で)第14ポイントにはコリョサラムがたくさんいた
からだよ。幼稚園でも、学校でも。それでコリョマルを覚えてしまったんです。

作者の声:なるほどね、このように他の民族もコリョサラムとつきあったらコリョマルが楽に覚え
られるんだね。

クムィスベク:ええ、コリョサラムがたくざんいるからね。だからほんとに早くコリョマルが喋れる
ようになりました。家の家族はみんなコリョマルができますよ。

作者の声:子どもたちも?

クムィスベク:今の子供たちはダメだね。でも私たちはコリョマルで話すんだよ。

作者の声:兄弟や姉妹はたくさんいるの?

クムィスベク:(ロシア語で)1番上の兄は学校の校長をやっててね、(ロシア語で)2番目の兄は
州委員会で働いています。私も学校に勤めています。(ロシア語で)弟はアルマトィで働いています。
(ロシア語で)妹はタルドィ・クルガンにいます。みんなコリョマルできますよ。

作者の声:家族はたくさんいますの?クムィスベク:7人です。兄弟が5人、姉妹が2人。父はもう
亡くなりました。母は一緒に住んでいます。

作者の声:家庭ではカザフ語を使いますか?

クムィスベク:私たちの兄弟、姉妹が集まったときはね、コリョマルでおしやべりするの。それから
カザフ語も、そうロシア語も使うね。

作者の声:カザフ語は大事にしないと…

クムィスベク:もちろん、自分の民族語を忘れるなんて考えられない。ただ、私の場合、コリョマル
もうまく喋れる、コリョサラムよりうまくしやべる。

作者の声:クムィスベクさん、あなたは偉い人ですよ…(カザフ語で)では、カザフ語も上手なんですね?

クムィスベク:(カザフ語で)もちろん!白分の民族語ができないなんて?自分の言葉の他にコリョマル、
ロシア語ができるということです。

作者の声:(カザフ語で)通った学校は、ロシア語の、それともカザフ語の?

クムィスベク:(カザフ語で)ロシア語の学校です。その後、体育学院に学びましたが、そこもロシア語で
教えていました。

作者の声:(カザフ語で)アルマトィのですか?

クムィスベク:(カザフ語で)いや、イルクーツクの、私は体育の教師です。

作者の声:(カザフ語で)それからここへ戻ったわけ?

クムィスベク:(カザフ語で)ええ、77年[「台本」には66年]に卒業して。いまは学校の教師をしています。

青年がしやがんでいる。脇に少女

作者の声:あれはあなたの弟さん?

クムィスベク:ええ、弟です。

作者の声:何歳ですか?

クムィスベク:31歳です。

体操用のランニング姿の少年。彼からクムィスベクにパン

クムィスベク:コリョサラムとわれわれはきょうだいのように生きてきました。良い関係でつきあってね、
ほら、おばあさんかでてきたでしょう。彼女は主任農業技師であった私の父と一緒に働いていました。
楽しくおつきあいをして、楽に言葉を覚えていったということです。

作者の声:他の民族の言葉を覚えることは、すばらしいことですね。

クムィスベク:そうです。タルドィ・クルガンにいる弟もコリョマルが良くできます。妹の方は書くことも
学んだんですよ。わざわざ講習会に通って。私の兄弟、姉妹は全員高等教育を受けました。これは
両親のおかげです。

少女が通りかかる声がかかる:(カザフ語で)ビグーリャ、こっら見てごらん。

ビグーリャ:(カザフ語で)ええ、いいわ、ちょっと待って… 犬小屋のそばにいる子犬

菜園の風景、パンしてきて女性の顔にアップ。彼女の名前はヴァーリャ。ズームバックして中景に

ヴァーリャ:菜園が小さくてね。白菜を植えているんですよ、白菜を…

作者の声:これは、カボチャですか?

ヴァーリャ:ええカボチャ、それにトマト。

作者の声:菜園には他にどんなものを植えていられますか?お聞かせください。

ヴァーリャ:他には、どうしても必要なもの。じゃがいもにニンニクとか…

作者の声:(ロシア語で)足りますか?

ヴァーリャ:(ロシア語で)足りるよ、自家用としては。売りに行かないから。大きな菜園を持っている
人は(ロシア語で)市場へ売りに行くけれども。私らは行かないで、もっぱら白分たちで食べる。

作者の声:(ロシア語で)でも、助かるでしょう。

ヴァーリャ:(ロシア語で)そりゃ大変助かりますよ。キイチゴも植えてあるから(ロシア語で)ジャムも
作れるし、リンゴはほんの少し、樹が年とってしまったからね、実があまっできないの…(ロシア語で)
葡萄はね、春先にみんな寒波にやられて、やられなかったらたくさんとれたのに…

ひさしの下の葡萄の房ヴァーリャの中景

ヴァーリャ:近くにコリョサラムのお婆さんが住んでいるの。道に出て来いというのよ。ヴァーリャ、
コリョマルで話そうって。あんたの話って、ほんとうにおもしろい、さあもっと話そうよ。あのお婆さん、
お話しましょうって、いつもしきりに私にコリョマルで話させようとするんです。

作者の声:(ロンア語で)お隣(朝鮮語で)がコリョサラムですか?

ヴァーリャ:お向かいにコリョサラムが住んでいます。隣はロシア人。近所に1家族だけコリョサラムが
います。(ロシア語で)隣はロシア人。

作者の声:いま、コリョサラムはコリョマルが下手なんだけど、ヴァーリャはコリョマルがほんとうに
お上手で、偉いですね。

ヴァーリャ:コリョマルを知らないわけには行かないよ。ここに一生住んできたんだから。私はコリョサラムの
女性と38年間も一緒に働いてきたんだから。私は(ロシア語で)1936年生まれで、(ロシア語で)
37年にコリョサラムがここに送られてきたんです。ここフルンゼ農場には、ロシア人は当初5家族しか
いなくて、他は全部コリョサラムでしたから。子供時代はずっと、コリョサラムの子どもたちと過ごして
きたのですから。

若いクルド人女性(嫁)

女性(ハヌ)の声:あれ、あなたはうちの嫁のこと、撮影なさらないのかい?

作者の声:もちろん、彼女も撮らないと!

女性(ハヌ)の声:ならば、ちやんと着替えなくては。そうしないと、うちでは嫁にすごいもの着せてるって、
いわれるよ。

作者の声:顔も目つきもすばらしいから、(ロシア語で)服なんかどうでもいいですよ。大事なのは目つきです。

女性(ハヌ)の声:ええ、それならいいけど、何よりも心が優しいよ。私が叱ったりしてもでていかないんだ。
彼女が子どもたちを叩いたりするとき私は彼女をうんと叱るのだけれども、それでも出ていかない。

作者の声:(笑いながら)どこへ行けるっていうんですか?

女性(ハヌ)の声:自分の母親のところへ行けばいいって思ってるけど、出ていかないんだよ。

作者の声:どうしてそんなに彼女を追い出したいのですか?

女性(ハヌ)の声:気が強いんだ。他の嫁をもらいたい。

作者の声:どうして新しい嫁がいるの?

女性(ハヌ)の声:それで叱ってるんだけど、出ていかないんだ。全くどうしたものやらね…

クルド人の老女のクローズアップ、彼女の名前はハヌ

作者の声:(ロシア語で)あなたのことが好きだからですよ。

ハヌ:もしかしたら、私の鼻が大きいからとでもいうのかい?たぶん私の顔の何かのせいだろうよ。
追い出そうとする、でも出ていかない。

作者の声:何でこんな美人を追い出そうっていうんですか?

ハヌ:性格はいい子だから、我慢しようかね。

部屋のなか、戸棚からはじまる長いパン。孫娘とソファーに座るハヌヘ

作者の声:みなさんどんな暮らしをしているか紹介してもらいたいのですが…

ハヌ:うちにはね、あれ、クリスタルの食器もないし、ほんとに何もないから。娘が家を建て終わらない
うちは、何も貯金できないし。クルド人は親類同士それほどつき合わないんだよ。…私も、コリョサラムの
女牲みたいに、家のことは何でも自分でするからね。キムチも作るし、キュウリも潰けるし、何でもするさ。
そうやって暮らしているのさ。

作者の声:ご白分で味噌も作られるから。

ハヌ:醤油も自分で煮なきゃならなくなるね。物価がこんなに上がってしまったから、何も買えないからね。
(ロシア語で)年金は惨めなもんだよ。このあいだ、9個[千ルーブリ]もらったけれども、男の場合11個
だったはずだよ。もし肉を買いに行ったら、1月分の(ロシア語で)年金を1日で使ってしまうことになる。
こんなの、お金っていえるかね?だからみんな自分ですることになってしまうんだよ。

作者の声:菜園はお有りでしょう?

ハヌ:菜園はあるよ。遠くの菜園には(ロシア語で)葱を植えています。ここにはジャガイモに(ロシア語で)
トマトも。(ロシア語で)葱は虫に喰われてしまうのでダメ。それから、草のせいでも(ロシア語で)葱はうまく
行かないね。…ジャガイモ、キュウリ、ニンニク…ニンニクは数日前に全部引き抜いちまった。隣の家は
盗まれてしまった。

作者の声:どうして引き抜いちゃったのですか?

ハヌ:心配になって。なぜだか泥棒が多くなったもんでね。全部引き抜いたんだよ。収穫自体は悪くなかった。

婿へのパン

作者の声:彼はお婿さんですね?

ハヌ:そう、婿。うちは娘は1人だけでね、息子は5人いたけども、1人が亡くなってね。娘は1人。

作者の声:お婿さんはなんて名前ですか?

ハヌ:オスマンです。

作者の声:(ロシア語で)あなたの名前は?

婿:(ロシア語で)私の名前はオスマンです。

作者の声:(ロシア語で)名字は?

婿:(ロシア語で)ムズマン・アリです。

孫娘とソファーに座っているハヌ

ハヌ:それで私は、タマ=オグルイ・ハヌ。

孫娘からズームバックして中庭に

作者の声:(ロシア語で)君は学校へ行っているの?

ハヌ:この子はまだ学校へ行ってないよ。

作者の声:(ロシア語で)いくつなの?

孫娘:(ロシア語で)六つ。

作者の声:(ロシア語で)クルド語は喋れるかい?ざあ、クルド語で私に挨拶してごらん。

孫娘:(ロシア語で)サラーム。

作者の声:(ロシア語で)サラーム?あれ、サラームってクルド語?それカザフ語じゃないの?

ハヌ:(ロシア語で)私のところでも同じなんだよ。

ハヌと孫娘、ズームアップ

ハヌ:他[民族]の子どもたちも、ここではみんな一緒に暮らしているんだ。どこへも出ていかない。
死ぬのもここだとよくいうの。みんな一緒さ。

作者の声:ハヌおばあさん、あなたはおいくつなんですか?

ハヌ:わたしや、もういい歳だよ。グルド人は、自分の歳がいくつか知ってるとは、限らんのさ。
パスポートに書かれたって、そんなもの知るもんかね。(娘にクルド語で聞いて、娘が答えて、
朝鮮語に戻る)27年生まれだって、わたしゃ。

作者の声:27年生まれね。(ロシア語で)ではここへ強制移住させられたときのこと、覚えてられますか?

ハヌ:私たちは、みんなほんとうに小さかったからね、覚えていない。わたしゃこの「組合」で[大人に
なって]結婚もしたんだよ。子どもたちは、みんなカザフスタン国民になって。だからどこへも再移住する
ことはない。みんなここにいるから。

作者の声:お父さんとお母さんは?

ハヌ:みんな、ここに住んでますよ。

作者の声:みんなまだ生きているのですね。

ハヌ:そう、生きている。

作者の声:どこに住んでいるの?

ハヌ:ここだよ。

作者の声:実験農場に?

ハヌ:ええ、ここに。

作者の声:ハヌおばあさん、どうしてコリョマルが良くできるようになったのですか?

ハヌ:わたしゃ、コリョサラムの村で大きくなったのにできないもんか?いつもコリョサラムと暮らしてきた
から、それでできるのさ。

作者の声:コリョマルが実に正確です。多くのコリョサラムはそんなにうまく話せません。

ハヌ:子どもたちも、みんな聞き分けられるけど、でも喋れないね。

作者の声:子どもたちも?

ハヌ:全部聞き分けられるけど、でも喋れない…

作者の声:いま時のコリョサラムみたいにね。ハヌ:子どもたちも、コリョサラムと同じようにケートク
[イーストをいれずに作る朝鮮式の蒸しパン]も食べてますよ。コリョサラムだよ、うちの子どもたちは。

作者の声:カザフスタンに強制移住させられたのはいつですか?

ハヌ:それはほんとうにわからない。もう記憶にないよ。

作者の声:初めてここに来たときのこと覚えていません?どこにどのように住んでって…

ハヌ:わたしらは、コーカサスから移住させられてから、ずっとここに住んできました。父親はここでなくなって、
母親はまだ元気です。それからきょうだいもここに住んでいます。みんな一緒です。でも知り合いの
コリョサラムは、ほとんど出ていってしまったね。知り合いのコリョサラムは少なくなってしまったね。
一緒に働いた仲間のコリョサラムで、いまでも残っているのは、ノ・リ一ダ、シン・ヴェーラくらいなもの
かしらね。

作者の声:たまに会ったりしますか?

ハヌ:私はクルド人よりも、むしろコリョサラムとより多くつき合ってきました。22年間、私はコリョサラムと
一緒の[実験農場の]作業班で働きましたから。

作者の声:だからコりョマルが…

ハヌ:そう、互いにコリョマルで話しながら。

作者の声:食べ物もコリョ[高麗]の食べ物を…

ハヌ:コリョの料埋、食べながらね。ご飯やキムチや味噌、…中庭で味噌作ってるから見てお行きよ。

作者の声:子どもたちもコリョの食べ物を食べますか?

ハヌ:コリョの味噌汁、私らもコリョサラムのように、それで緑のものをたくさんとっているんですよ。

作者の声:どこからこちらに来られたのですか?

ハヌ:グルジアから。バトゥーミのそばのコブレティからです。

作者の声:グルジア語はご存じですか?

ハヌ:少しは知っています。

作者の声:家庭ではクルド語で会話されていますか?

ハヌ:クルド語で、コリョマルで…覚えておかなくてはいけないんですよ。子どもたちはコリョの子どもたちと
一緒の学校に行くんだから。アリク(息子の名前)が、お母さん、コリョサラムの男の人が家に来て、
お母さんのこと写真に撮りたいって言ってるって。私は言ったんだ。恥ずかしいね。足も悪いし、
みんなの笑いものになるよって…

作者の声:どうしてそんなこと言われるんですか?まだ十分お美しいですよ。

ハヌ:目が薮睨みになってしまって、恥ずかしいよ…ここの人々はみんな良い人達だよ。カザフスタンも
どこも同じですよ。混ざればみんな一緒だから。

作者の声:カザフ語はご存じですか?

ハヌ:少しは知ってますが、もともとここにはカザフ人は住んでなかったのさ。彼らは羊を飼って、
ジャイリャウにいた。ここには、彼らはほとんどいなかった。この村はコリョサラムの村であった。
いまではロシア人も住んでいるし、ほんとにあらゆる民族が暮らしているね。チェチェン人は少なくなって、
そうトルコ人も同じだね。クルド人はたくさんいる。もともと、クルド人はこのウシトベよりも、アルマトィの
方が多いね。

作者の声:私は子ども時代に、第2通りに住んでたんですよ。

ハヌ:私らは第3通り。ボンデをご存じ?リ・ボンデ、彼の奥さんはここで亡くなってね。彼の娘は確か、
ノラっていう名前だけど、アルマトィヘ行ったそうだよ。

作者の声:1948年に私は学校で、クルド人やトルコ人[の子ども]と一緒でした。1人は、マメジョゴリって
名前でした。

ハヌ:ああ、マメジョゴリ・アリグっていましたね。とても背の高い。彼らは引っ越して行ったよ。

作者の声:引っ越して行ったのですか?ハヌ:引っ越して行った。

作者の声:それにもう少し背の低い子もいた。

ハヌ:アメド・アフメド、彼もいたね。

作者の声:で、どこへ引っ越して行ったの?

ハヌ:彼はロストフ[ロシア共和国ヨーロッパ・ロシア中北部の都市]ヘ出ていった。あそこにはたくさんの
クルド人が住んでいるんです。それからコリョサラムもね。リ・ヴァレンティンをご存じでしょう?彼はむかし
班長であった。彼の息子はいまでもここにいます。ついこのあいだ、彼らのところにお客に行ったけど、
叔母さんが亡くなったって。

作者の声:それから、マメジョゴリの他にハサンがいましてね、とても鼻の大きな子でした。

ハヌ:それはここにいるよ。彼は私の弟ですよ。彼のこと覚えていたの?

作者の声:私と彼は、学校で席がならんでいたんですよ!

ハヌ:彼の鼻は、こんなに大きくってね!5人の子持ちですよ!…

菜園のハヌ、トウガラシの緑の莢をむしっている

ハヌ:これはあんまり辛くない、ドンガン[19世紀に中国から移住したカザフスタン、キルギスタンの民族]
風のトウガラシ。コリョのトウガラシではないけどいかが?お食べになりますか?

作者の声:ありがとう。

ハヌ:去年はとてもたくさん採れてね。でも今年は不作。私が水をやってきたんだけど、あの大雨がきて、
みんな駄目になっちやった…ちょっと待ってて、見てくるからね。花はたくさん咲いてるけど、豆はまだ
なってないね。また今度きてくれたら、袋にいっぱいあげるから…これはカチャンのキャベツ…昔は
セロファンでくるんだものだけど、2畝分も…でもいまはどこでもセロファンが見つからない。それで茄子が
すっかり萎びちゃった。

作者の声:セロファン売ってないの?

ハヌ:店には全然出てこない。全くないんだよ。

息子が家族とともに中庭に

ハヌ:これは私の息子。私の一番大事にしている息子だよ。心のきれいな子だよ。

作者の声:それからお嫁さんも性格がいい。息子さんの性格も!

ハヌ:嫁を追い立てる。でも出ていかない。彼女がこどもを叩くと、私は嫁を叱る。

作者の声:(ロシア語で)家族で一緒に撮りましょう。一緒に。 息子、妻と子どもたちと一家でならぶ

ハヌ:コリョサラムたちこれ見てまた笑うだろうね

作者の声:どうして?きっと喜びますよ。

ハヌ:どこで、そんなクルドの婆さん見つけたんだ、アルマトィでは笑うんだよ。足の悪い婆さんだなあって…

作者の声:ハヌおばあさんは、他へ移住するつもりはないのですか?

ハヌ:ないよ。ここで死んで行くつもり。

嫁にトウガラシを渡しながら朝鮮語で

ハヌ:よく洗ってセロファンの袋に入れるんだよ。

妹、茶碗に入れると洗いに行く。ハヌ、クローズアップで

ハヌ:え、一緒に食事していかないの?どうしてまた、そんな?

作者の声:時間がないんです。ありがとう。でも急いでいるんです。

家族全員、手を振って見送る

ハヌ:また、来てくださいよね。トウガラシをとりにね。袋いっぱいあげるから。
またほんとにおいで!…

工ピローグ
道 女性の歌声(朝鮮語)

月に2、3度便りをくれるよリも、3ケ月に1度でも会いに来てくれたなら。

エヤ エヤ 遊びはいいね、舟遊び行こうよ。

マリアが木下に座って歌っている歌声(朝鮮語)

せめてあなたの心と私の心が半分ずつでも、刺の道が千里でも訪ねていくのに、

エヤ エヤ 遊びはいいね、舟遊び行こうよ。あ

のチョンガー結婚できずやきもきするね、エヤ エヤ

遊びはいいね、舟遊び行こうよ。

フリ一ズしたポートレートにタイトルが入る

マリア・コヴァレンコ/ウクライナ人

クムィスベク・サガディエフ/カザフ人

ヴァーリャ・コルチミナ/ロシア人

ハヌ・タマニオグルィ/クルド人

制作スタッフ:

ラヴレンテイー・ソン 
スタニスラフ・ソン
イリーナ・ソン
スヴェトラーナ・ソン

(C)ソン・シネマ クレジットタイトル


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Song Cinema


掲載開始 1999.08.09. 最終更新 2002.05.06.