CIS在住朝鮮人は何を失い、何を守り、何を得たのか?

下中記念財団創立30周年記念国際シンポジウム 
大きな文化は小さな文化から何を学べるか?                                
ラヴレンティー・D・ソン

1992.11.17.

The culture in CIS Koreans:
a summarized report by a minority film-maker Lavrenty D. SON,
Song Cinema Inc., Alma-Ata, 1992.11.17.  



敬愛するみなさん!  下中邦彦さんと岡田一男さん、そしてこのような大変興味深いシンポジウムを
組織してくださった皆様に、ご招待いただき参加させてくださったことに対して感謝の言葉を述べさせて
いただきたいと思います。 

まず第一に指摘しておきたいことは、私がこれからお話することは、学問的な調査ではなく、映画人、
また独立国家共同体(CIS)に住んでいる一少数民族の代表として、私が主観的な考えを述べたもの
に過ぎないということです。私の語ることの中には、CISの朝鮮人の生活における社会・文化学的問題
に対する感情的な見解の方が多いのです。 統計的資料が乏しいのは、大変逆説的なのですが、
朝鮮研究者の学術論文が豊富にあること、より正確にいえば、それらが互いに一致していないことが
原因です。統計を少し分析してみると、朝鮮人の状況は以下のようなデータによって位置づけられます。

1) 1937年、朝鮮人は主に沿海州に住んでいたが、1年半の間に強制的にほとんど全員、18万5千人が
カザフスタンと中央アジアに移住させられた。

2) 現在、CISの領土内には、およそ45万人の朝鮮人が住んでいる。その多くは農業に従事している。
カザフスタンには、10万人を少し上回る朝鮮人が住んでおり、ウズベキスタンには14万人、ロシアには
10万5千人、コーカサスの諸共和国(アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア)、ウクライナおよびバルト
3国には約10万人が住んでいる。

3) 1937年、極東とサハリンでは 380の朝鮮小・中学校、師範学校と技術専門学校が教育を行なって
いた。強制移住後の1938年には、それらすべては廃止されるか、あるいはロシア語による教育に換え
られた。そしてサハリンでのみ、いくつかの朝鮮学校が残された(60年代まで)。 

今日、人口一人あたりの学歴で、朝鮮人はCISにおいて、最も上位を占めている民族の一つです。
これは朝鮮人の中にある、教育崇拝の結果です。 政治的な無権利、全く見えない将来、また内務人民
委員部(NKVD)の弾圧的組織に対する恐怖、これらが移住させられた諸民族に一つの消し難い性質、
沈黙を植え付けました。移住の時にも、その後にも、何故移住させられたのかについては、誰一人として
おおっぴらには関心を抱きませんでした。公式の通達書類では、強制移住は極東、コーカサスとクリミア
におけるソ連国境の安全を考慮したためであるとされました。私には、これは単に政治的な裏の言い訳
であって、根本には全く別のことがあると思われます。つまり、スターリンは、際限なく諸民族を、ある地域
から別の地域へ移住させ、それによって人々に明日に対するおぼつかない感情を植え付けることで、
国を支配しやすくしたのです。彼はウクライナ人をも、生まれた土地から切り離して、クリミア、コーカサス
とボルガ川流域の人のいなくなった場所に住まわせ、極東にはロシア人とユダヤ人を送り込みました。

強制移住は戦後、もう既に少数民族が、ファシストのために破壊活動や諜報活動を行なっていると、疑う
必要のない時になっても続けられました。ところで、朝鮮人の極東からの移住に対する形式的な口実に
なったのは、スターリン宛のブリュッヘル元帥の手紙です。  それは「朝鮮人をどう扱ったらよいでしょう。
対ソ連戦争を準備している日本人と見分け難いのです」。この話を私に教えてくれたのは、いま最も活躍
している朝鮮専門家の一人、ゲルマン・キム氏です。そしてスターリンは、あまり考もせずに、朝鮮系の
人々全てをカザフスタンとウズベキスタンのほとんど人も住まないステップに追放したのです。日本の軍部
のためスパイ活動をした事実が無かったと言ってしまっては、正確でないでしょう。それを裏付ける文書が
あるからです。しかし、民族全てが、その一部の人間の行動に対し責任を取れるものではありません。
さらに、チェチェン人、クルド人、トルコ人、イングーシ人、カラチャエフ人、ギリシャ人、アブハジア人や、
その他のコーカサス諸民族が、1949年に至るまでカザフスタンと中央アジアに移住させられたのです!

追放された人々は、特別移住者(スペツペレセレンツィ)と呼ばれ、毎月末に、またいくつかの地域では
毎週、警備司令部に登録しなければならす、決して一つの居住区から、他へ移ってはなりませんでした。
そして1949年になって、やっとスターリンは、特別居住者に移動の自由を与えたのです。朝鮮人の若者
はすぐに、大都市−モスクワ、レニングラード(現サンクト・ベテルブルク)、キエフ、オムスク、トムスク、
ノボシビルスクなどへ出て、大学で学びました。これはすぐに朝鮮人の教育程度に影響しました。朝鮮人
の間では、教育への崇拝は伝統的なものだったのです。今日では、朝鮮人で修士や博士になった人は
数多く見受けられます。主にこれらは、数学者、歴史家、法律家、教育者、経済学者などです。

しかし、1985年まで、少数民族出身者、特に朝鮮人とドイツ人は、幾つかの大学へ進学する権利が制限
されていました。コンピュータープログラミング、ロボット製作、核物理および宇宙部門の学部に入ることは、
ほとんど不可能でした。 

以上、CISの少数民族である朝鮮人の最近の歴史について、短めにご紹介しました。あまりバラ色の描写
ではありませんが、どうしようもありません。歴史的事実は、修正することはできません。 実をいうと光栄
にも参加させていただくことになった、このシンポジウムがあったために、私は多数民族と少数民族の文化
の相互関係について真剣に考えさせられたのです。

少数民族のドキュメンタリー映画を撮影する過程で、私が直面した事実は、少数民族の文化が、何十年にも
わたって支配的な民族、すなわちロシア人の文化に圧迫されてきたのだということに尽きます。あるいは、
少数民族の文化、社会、労働生活に対する、多数民族の積極的な影響と言った方が、より正確でしょう。
1938年に政府決定によって、民族学校が閉鎖され、新しい世代は、すでにロシア語で教育を受けました。
このようにして、ロシア語は公用語となったばかりでなく、労働のあらゆる分野で不可欠になり、その結果、
ソ連市民の大多数にとっての母語となりました。自分の子供時代を振り返ると、朝鮮人の子供である私たちが、
必死に自分たちの言葉を忘れようとしていたという悲劇がすぐに思い出されます。これが自分には上手くいか
なかったことを、私個人は非常に苦しみ、嘆きました。自分の母語と手を切ってしまえば、国内移動においても、
教育を受け、仕事を得るときにも、優位にあるロシア人の連中と、心理的に同等になり、とにかく文化的な
人間になることが出来るのだという考えが、強く存在していたのです。 

少数民族である朝鮮人は(何れにしてもソ連内では)、素早く適応した集団でした。生き残るための戦いの中で、
朝鮮人たちは上手く状況を見定め、どんなタイプの労働でも身につけることができ、どんな宗教も受け入れ、
知らない言語を身につけ、絶望状態からの出口を見つけることが出来たのです。言葉は、最も強力な文化の
伝え手だという周知の立場に基づくならば、ロシア文化が、少数民族の文化に強く影響したということに疑問の
余地はありません。また、常によい影響を及ぼした訳ではありません。残念ながら、朝鮮文化に対しては、
「影響」という用語は、あまりにも控えめすぎるといわざるを得ません。ロシア文化は朝鮮文化を圧迫し、それを
民族の慣習の内部に押し込め、よくてもせいぜい朝鮮文化には、いかなる関心も示さなかったのです。

ただ一部の熱心な人々の超人的な努力のおかげで朝鮮語劇場と、朝鮮語新聞『レーニン・キチ(レーニンの旗
幟)』は、活動を続けていたのです。 文化の概念には、おそらく伝統や習慣、心理上の民族的特徴や、民族
料理までが含まれると思います。この点では、事情はずっとましです。老人への敬意、結婚の儀式、出産を祝う
儀式、「60歳の」誕生祝い、葬儀は残されています。確かに、それらは一定の変化を被りました。そして朝鮮料理
だけが、本質的な変質なしに残されたのです。中央アジアやカザフスタン、コーカサスでの朝鮮料理の人気を
考えてみれば、朝鮮文化がソビエト文化へ一定の貢献を成し遂げたと言ってもいいでしょう。 

さて今度は、次の点についてお話したいと思います。ロシア語は、朝鮮人の社会生活から母語を追い出して、
少数民族である朝鮮人たちに生き延びる可能性を与えただけでなくより大きな文化(この場合はロシア文化)に
おいて見事に自己を発揮する可能性をも与えました。この意味で、最も権威ある歴史家の一人であり、数巻に
わたる『ロシア国家の歴史』の編集長を務めた人物が、マクシム・パーヴロヴィッチ・キムであったという事実は
特別な意味を持っているように思えます。科学アカデミー準会員ゲオルギー・フョードロヴィッチ・キム、博士号を
持つアンドレイ・インスーノヴィチ・パク、イーゴリ・アレクセーヴィチ・ジェン、グレゴーリー・ボリソヴィチ・ハン、
ヴェニアミン・ヘガイ、エヴゲニー・ツォイ、ニコライ・コガイ、オリガ・ミハイロヴナ・キムの諸氏、その他多くの人々
の業績は有名です。芸術活動に携わる人々を挙げることもできます。最も才能ある作家の一人、アナトーリー・
キム。彼の小説は、世界の多くの言語に訳されており、彼のロシア語は、最も優れた芸術的散文の言葉であると
されています。リュドミーラ・ナムは、ボリショイ劇場の有能なソリストで、彼女の素晴らしい歌声は、ヨーロッパ
だけでなく、アジアやアフリカの聴衆や観衆にも知られています。 文学において、ロシア語はまた、他の多くの
才能ある現代作家を生みました。アレクサンドル・ガン、ヴラジーミル・リム、アンドレイ・ハン、ゲンリエッタ・カン
などがそうです。著名な劇作家ハン・ジンによれば、朝鮮文学には、かつて空洞が生じたことがありました。作家
の年上の世代は朝鮮語で書くのですが、何を書くことができ、何を書いてはいけないかを、あまりにも良く知って
いた。だから、自分たちの作品について、真の文学現象として、真剣に書いても仕方がない、という気分になって
いた、というのです。これは朝鮮語で書く作家の罪ではなく、悲劇なのです。何故なら、文化や芸術、文学が、
非常に政治化されていた時代があったからです。そしてこの間、発表する望みも全く無いままロシア語で書く若い
朝鮮人作家たちが、創作活動に励んだ結果、芸術的観点から見て価値のある作品によって、先に述べたような
空洞が埋められたのです。若い作家たちの作品集『太陰暦のページ(ストラニッツァ・ルーンナバ・カレンダリャ)』
が、それを証明しています。付言すれば、リ・ゲンジン、ハン・デヨン、カン・チャスといった素晴らしい朝鮮語作家
が、いま活躍しています。ロシア語で書く作家のものも、朝鮮語で書く作家のものも含め、朝鮮人作家の新しい
散文集の刊行が準備されていますが、朝鮮語のものは、ロシア語に翻訳されます。作品集『大海の一すくい
(ゴールスチ・オケアーナ)』は、私の「ソン・シネマ」社から出版されます。サンクト・ペテルブルクでは、ロシア語で
朝鮮人雑誌『コーリョ・サラム』が出ています。アル・マアタでは、朝鮮人作家協会が組織されています。また、創立
されたばかりの文学・情報通信社「ディアスポラ」も活動を始めました。 しかし最も重要なのは、朝鮮児童バイオ
リン合奏団、「ハヤン・ナビ(白い蝶)」が創られたことです。合奏団のレパートリーには、19−20世紀のロシアや
外国の作曲家の古典的な作品が入っています。演奏レベルの高さが評価されて、合奏団はゲレンジク(北コーカ
サスにあるクラスノダール州の都市)で行なわれた国際コンテストで入賞し、ソリストの一人、セリョージャ・ツォイは、
モスクワ音楽院附属音楽学校で学ぶよう招待されました。 韓国、米国とドイツの韓国人宣教師達の努力の
おかげで、CIS朝鮮人はいま、かつて自分の母語であった朝鮮語を積極的に学んでいます。韓国啓蒙センター
の人々の骨折りは大変なもので、近々明らかな結果を生むだろうと思います。他の世界各地の朝鮮人との接触が
増えたことも、良い影響を及ぼしています。 

今まで述べたことをまとめて結論を言いますと、支配的な民族の文化は、自らの発展のために、少数民族の優れた
人々を取り入れ、今も取り入れているということです。彼らの知的、創作的な能力は、然るべきレベルに達しています。 

「大きい」文化と「小さい」文化の相互関係を別な角度から分析することも出来ます。もし後者を前者の構成部分と
考えるならば、明らかに「大きい」文化は、「小さい」文化を全部取り込んでいます。このような見方は、量的な参加
であると言えます。ですから、例えばソビエト文化は、自主的に保存されたソ連の諸民族の文化の総体である、
とも考えられます。 注釈として、言葉を違う風に表現することを提案したいと思います。そうすると、文化の大小に
ついて語る意味は、恐らく無いだろう、文化は文化であり、大小はあり得ないのだ、とも言えましょう。古い文化や
新しい文化というのは、あり得ます。「大きい民族の文化と、小さい民族の文化」という提議も正当でしょう。一言で
いえば、「文化」の概念は質的な概念であり、量的なものではない、ということです。とは言っても、これは原則的では
ありません。我々はみな、非常に仮想的に、大きい文化とか小さい文化とか言いつつ、何の話をしているのかは、
判っているのです。 

ペレストロイカは、例外なくソ連の全ての民族に、民族文化と民族的自覚の復活への大いなるきっかけを与えました。
変化の風は、全ての共和国が主権国家であり、それらの母語が公用語であると宣言しました。現在、朝鮮人のような
CISの少数民族の文化に、いったい何が起こっているのでしょうか? その内側はどんな具合いなのでしょうか? 
私の考えでは、独自性や言葉の復活、思考と行動の自由、社会・日常生活の中での、民主主義的な選択といった
分野における、今のような物事の急激な変化には、朝鮮人は心理的に準備が出来ていません。 民族的自覚の
復活に、大きな役割を果たしたのは、韓国の宗教的、啓蒙的な使節団の人々でした。彼らは、母語の教育という
最も確実なことから始めました。国内で沢山の文化センターや公共的、商業的企業が創られ始めました。多くの
外国訪問で、ものごとに自信がつき、他の地域からの朝鮮人との学問的、文化的関係が強まりました。一言で
いえば、朝鮮人はこの世界で一人ぼっちではない、先祖たちの祖国があるのだと判かったのです。我々は、
何十年にもわたって、自分たちが二流であるという、劣等感を植えつけられてきたのですが、それから解放され
得る、現実的な可能性が現われたということを理解したのです。特に、これは文化の分野に見られることです。
創作的な団体、アマチュアやプロの集団、学問的、商業的協会が生まれました。このプロセスは大変な早さで
進んでいます。 良くあることですが、そのような場合には失うものや誤りもあります。多くの人々が、朝鮮文化は、
大昔からあったのだと言うようになり、あたかも世界で朝鮮人が、特別であるような印象を与える、社会学的調査
のデータとかいうものを挙げ始めたりしています。時には、古代ギリシャ人の祖先は、朝鮮人だったのではないか
とさえ感じます! 間もなく、こういう状況はすべて過去のものとなり、高い演台から喋るよりも働く方に、人々が
もっと時間を割くようになると、私は確信しています。そうすれば実際に朝鮮人は、自らの民族的尊厳と内面的
自由を手に入れることでしょう。 CISの朝鮮人の大部分の暮らしは、物質的に悪くは無いということは、指摘して
おかねばなりません。これは、朝鮮人が適応しやすく、ほかの人々より2・3倍働かなければならないと判っている
ためであり、また更に、粘り強く、仕事熱心で、知識欲があり、目的意識を持つといった性質を備えているからです。

この性質は自ら形成されたものだと、私には感じられます。なぜなら、朝鮮人には、大きな民族の側から迫害された、
沢山の経験があるからです。 シンポジウムのテーマに戻りますが、私が言いたいのは、多数民族の文化も、少数
民族の文化も、現在、最も積極的、肯定的役割を果たしているということです。これは、いまのCISの歴史展開に
規定されているともいえます。ソビエト連邦は崩壊しました。全ての共和国は、熱狂的に独立を宣言し、経済的関係
さえ断ちながら、散りぢりになっていきました。それに対して、全くスローガンやアピールなしに、一つの文化的空間を
守ろうと立ち上がったのは、スポーツと芸術です。非常に残念なことに、スポーツ組織もまた、最近共和国ごとに
別れてしまいました。選手たちが、最後に統一チームを組んで出場したのは、バルセロナ・オリンピックでした。
今や、各共和国が自分のオリンピック・チームを持とうと懸命になっています。ただ、俳優・音楽家・画家・文学者・
映画関係者など、創作活動に携わる人々のみが、自分たちの間のつながりを強化し続けています。私も、創作
活動に係わるものとして、心底これを誇りにしています。 いまCISは、非常に困難な時期にあります。それは、
社会・経済的危機として特徴づけられるものですが、各共和国の指導者への不信が増大しており、道徳の低下が
見られ、共産主義の理想が壊れつつあります。そのかわり、資本主義的制度のような経済的方針を除いては、
いまのところ人々を引きつけるものは、何もない。法秩序を守る機関は、本当に大変で、犯罪は刻々と増え続け、
法律の大部分は紙の上で終わってしまい、あちこちで民族間、国家間関係において紛争が発生しています。
アルメニアとアゼルバイジャンの間で、すでに長いこと実際の戦争が続いています。 アブハジアでも戦争が
起こっており、モルドバのドニエストル川左岸では、いくぶん落ち着いているようですが、11月までに、そこで問題が
平和的に解決されることを、私は強く望んでいます。タジキスタンでは、非常に強力な反対派がいます。ちなみに、
タジキスタンからは、すでに多くの朝鮮人が他の共和国へ移っています。 

このような不安な時期に、私たち一人
ひとりが案じているのは、民族の団結という問題だけでなく、文化の復興という問題です。このことをCISの朝鮮人
は非常に気にかけています。私たちは外の世界から、冷戦の鉄の壁によって切り離されていました。しかし今はもう、
南北朝鮮の両方に行き、習うべき多くのことを眼にし、今まで全く知らなかった親戚、兄弟姉妹と会い、先祖の墓を
訪ねています。

CISの朝鮮人はいま、希望で一杯です。それがなぜか? 

全ては、時が示してくれることでしょう。
ご静聴ありがとうございました。                           

翻訳: 岡 奈津子



1999.06.27. 掲載開始

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