TOORUMI POJAD

トールミの子供たち
(西シベリア、ハンティの熊送り儀礼)    DVD-R 日本語スーパー版完成

レナート・メリ作品 1989 16mmカラー 59分エストニアTV()・YLE−2()・IWF()共同制作  お問い合わせは info@tokyocinema.net
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あらすじ  この作品は、初めて本格的に記録された西シベリア、アガン川流域の狩猟・魚撈・トナカイ飼育民、ハンティの熊送り儀礼を紹介する。ハンティは熊を狩ると、熊を彼らの最高神、トールミの子として最大の敬意を払い、天地創造に始まる民族の伝承を織り込んだ様々な芸能により、数日間にわたってもてなし熊の霊を父なる神の国に送り返す。

作品の背景  西シベリア、チュメニ州ハンティ・マンシ自治管区を貫いてシベリアの3大大河の一つオビ川が流れている。そこは、地理に関心のある者にはフランスほどの大きさの世界最大の低湿地−西シベリア大湿原として知られる。また、この地域は世界最大の油井地帯でもある。資源問題に関心のある者には、ロシアの産油量の3分の1を支える−チュメニ油田の心臓部として知られる。民族文化に関心のあるものには、ここはユグリア−6000年にわたるユーラシア大陸最古の森林狩猟文化を今に伝える、フィン・ウゴル系少数民族、ハンティ−かつてはオスチャークと呼ばれていた−の暮らす土地として知られる。  

ハンティの伝承文化は、ロシアのシベリア研究者ばかりでなく、言語的にはハンティと最も近縁のマジャール語を話すハンガリアをはじめ、フィンランドやエストニアなどでも注目されてきた。ハンティの文化が、わが国との関連で言及されることは希だが、北方圏全域に分布する「熊送り」儀礼に関し、北海道のアイヌと並ぶ精緻な発展を遂げた伝承を今に保持する民族文化として、対比的に取りあげられてきた。

だがロシア帝国主義の悪しき伝統をひきずるソ連当局は、スラブの拡張主義に、最も厳しく抵抗した二つの民族文化−フィン・ウゴル系文化とチュルク系文化に対しては常に警戒を怠らず、その文化研究にも、陰湿な妨害を加えてきた。さらにソビエト政権は、シャーマニズムや、熊送り儀礼を迷信視して住民を圧迫し、民族学者の適切な研究を妨げ、国外研究者には「東側陣営」とされるハンガリアの研究者にすら、研究のための入域を禁じてきた。 

1960年代以来の急激なチュメニ油田の開発は、この地域の状況を決定的に悪化させた。中央政府が送り込んだ石油採掘従業員を中心とする移民は、30年間に150倍以上に膨らみ自然環境を大きく破壊した。劣悪な採掘技術は、豊かな油井をたちまち食い潰し、ブレジネフ期の終る1980年代中期には、奥地へ奥地へと進む自然破壊の前線は、東部ハンティ文化の聖域であるトゥロモ・アガン川およびアガン川の流域に達した。  

ペレストロイカのうねりの中で、ハンティ民衆はこの状況に激しく抵抗し、その民族的な自覚は、自分たちの伝統文化への関心を著しく高めた。ハンティは、近隣のマンシ・ネネツと共にシベリア最初の自主的な民族文化・先住民族権利擁護運動、「ユグリア救済協会」を組織した。 そのような機運を捉え、ユーラシアのフィン・ウゴル民族文化の研究を精力的に続けてきたエストニアの映像作家、レナート・メリ(1929- )は、地元のハンティ文化活動家の協力の下、画期的な「熊送り」儀礼の初の本格的映像記録に取り組んだ。この作品はその第一弾として発表されたTV放映版である。メリはその後、バルト諸国の独立闘争の政治指導者となり、ソ連時代末期のエストニア共和国外相ついで92年10月には独立エストニアの初代大統領に選出された。

仕上げ作業が大幅に遅れているが、学術資料版も、その完成が期待されている。

エストニア共和国大統領レナート・メリへのインタビュー 

レナート・メリは、92年10月、完全な主権回復を宣言した新生エストニア共和国の初代大統領である。メリは、エストニアを独立に導いた初代外務大臣ついで駐フィンランド、エストニア大使を務めた現代エストニアの民族派の政治リーダーであるが、もともとはヘルシンキ大学の客員教授を務めたフィン・ウゴル比較文化学の研究者で、作家で、民族誌映像の映画監督でもある。

ヨーロッパのマスコミは、英・仏・独・露・フィンランド語などなどを自由に操るメリを評して、現代バルト最大のルネッサンス人と呼ぶ。メリは、第2次大戦以前の独立エストニアの外交官の家庭に生まれたが、エストニアのソ連への強制併合にあたって、メリ一家全員が抑留されシベリアの強制収容所に送られた。少年時代をシベリアに過ごしたメリは、ソビエト権力による自国の植民地化、民族文化圧殺の危機を自ら味わった。  1960年代後半からの数十回にわたるメリのシベリア調査旅行は「北風の彼方」(1970)、「天の川の風」(1980)、「トールミの子供たち」 (1989)など、きわめてユニークな民族誌記録映像にまとめられている。西シベリア、チュメニ州スルグート地区北東のアガン川上流のタイガの森に暮らす狩猟・漁撈民・トナカイ飼育民、ハンティの熊送りの儀礼にまつわる諸芸能を記録した最後の作品にあたっては、フィンランド公共放送YLE2と、西独科学映画研究所(IWF)が製作に加わり、メリに協力して個々の芸能の研究用資料映像のまとめに当たることになっていた。これらの映像は、旧ソ連からの最初のエンサイクロペディア・シネマトグラフィカ収録映像として、大いに期待されていた。しかし80年代末のバルト諸国を襲った大激動は、メリを政治の渦に巻き込み、作業は中断を余儀なくさせられている。 

1992年4月、西シベリア、スルグート地区リャントールで、ロシア連邦における最初の先住民族権利擁護組織、ユグリア救済協会に結集するハンティ・マンシ・ネネツの文化活動家は、エストニアの映像人らの支援のもとに、民族文化研究者・自然保護活動家・先住民族保護運動家・教育専門家・医療関係者・法律家・映像専門家などを各国から招いた国際会議「ハンティ・マンシ・ネネツ文化生存の道」を開催した。映像専門家として参加を要請された筆者は、テレビ朝日・朝日放送製作の社会政治情報番組「サンデー・プロジェクト」のための取材を兼ね、エストニアの首都ターリン経由でシベリアに飛んだ。その往路に筆者は、ターリンにおいてメリ外相へのインタビューを要請したのであるが、メリは外相交替・引継という多忙を縫って、このインタビューに応じてくれた。インタビューにあたって、下記の項目を質問事項として事前に提出した。回答については、ハンティ文化に関連する部分のみを紹介する。

1. エストニアは、西シベリアの先住民族の現状と権利回復に、多大な関心を寄せていられるが、これはなぜなのでしょうか? それは、同じフィン・ウゴル語属という民族的・文化的なつながりによるのでしょうか?

2. エストニア、とりわけターリンという首都をちょっと見ると、きわめてドイツ的というか、北欧的というか、そういう印象を受けますが、基層文化であるフィン・ウゴル文化は、今のエストニアでは、どういうところに見られるのでしょうか?

3. あなた自身、高名なフィン・ウゴル語民族文化の研究者であり、ハンティ文化に対する深い造詣が知られていますが、ハンティ文化の何処が一体、最も魅力的だとお考えですか?

4. エンサイクロペディア・シネマトグラフィカの編集委員の一人として、また北方諸民族全般の熊送り儀礼に、多大な関心を寄せるものとして、1980年代に、あなたが取材されたハンティの熊送り儀礼の映像の運命には、大変な関心があります。仕上げについて、どんなビジョンを今、お持ちなのか、お考えをお聞かせ下さい。

5. 最後に、今回外相を辞任されるそうですが、今後も政治活動を続けられるのですか?それとも、学問や研究の道に戻られるのですか?

回答:  
ご質問いただき、有難うございます。しかし、最初に申し上げなければならないのは、貴方のご質問の答えは、とても2分や20分でお返事できる質問ではないということです。 

私がハンティの人々に興味を覚えたとすれば、それは彼らの文化が、独自な特色を持っているという点です。バルトに位置するエストニアは小さな国で、人口も約百万ですが、それに比べてハンティは、その五十分の一程度の人口の少数民族です。我々は、こうした少数民族の権利を守らなければならないと思っています。  

なぜならば、エストニアは、ラトビア、リトアニアと共に、二十世紀の終末を迎える現在まで、自分たちが永年、植民地の立場に置かれてきたヨーロッパにあっては数少ない国であり、自国の独自性を認識することの大切さを痛切に感じ、文化保持については、積極的に考えられる立場にあるからです。これは単に政治的な立場から申し上げる事ではありません。私は個人としても10年、20年、30年の間に、シベリアに三十回ほども調査旅行に出かけまして、シベリアの少数民族の研究をしてきました。1968年には初めて映像でハンティ文化の記録をつくりました。私にとっては、この問題は、永い間の興味の対象でした。  

私が初めてハンティをかの地に訪ねた時、先ず興味を引かれたのは、どうやってハンティが、その独自の文化を保持し続けて来れたのだろうか?、ということでした。  こういう言い方が適当かどうか分かりませんが、この鈍重で、ちゃんとした組織も持たない、目立たない人々が、どうやって文化の保持をできるのだろうか?、という風に思った訳です。文字というものを持たないのですから、記録とか本とか、そういったものは一切ないのです。それでも、私が最初に見たのは、手厚く保持されている、彼ら特有の文化でした。その点に、私は非常に興味を引かれました。彼らと親しくなるにつれて、彼らが、生まれながらにして伝承の輪、生きた言葉・生きた儀式の中に生活しているのだということ、次の世代に引き継ぐ記録や、書物等を残さなくても、生きた伝承文化の真只中に暮らしていることに気づきました。伝統文化の全ては、人々の頭脳の中に保存されているのです。

初めて許されて、私がハンティの「熊送り」に参加させてもらったとき、そういえば同じ様なお祭りが北海道のアイヌにもあるそうですが、祭の唄のレパートリーが多いのには、驚いてしまいました。祭の儀式は、何日もの長きにわたり続き、毎日が日の出に始まり、日没に終わるのですが、唄の数は古代ギリシャのイリアードの八から十巻にも匹敵するほどの多さなのです。 イリアードと違う点は、ただ一つ、一度も文字に書き起こされたことがないという点です。人々はそれを心にしまって、暗唱しているのですね。私は、どうやってこれだけの分量のレパートリーを、一人の人間が覚えていられるのだろうかとすっかりびっくりしてしまいました。  

彼らは実際、年がら年中、漁撈とか狩猟の小旅行を繰り返しているのに... 本当の処は分からないのですが、しかし私に判ったところでは常に記憶を修正するというプロセスを経て、それが達成されているらしいのです。つまり一人の人間の記憶力には、当然ある程度の限りがある訳ですが、二人の人間の記憶を突き合わせると、その限度は二倍になるのでなく、十倍あるいは二十倍に膨れ上がるのです。二人の間にある目に見えない対話が、手伝っているといったら良いでしょうか? 

こうした方法でハンティは、一世紀どころか、数千年の間、その歴史と文化を語り伝えてきたのです。ハンティはこうした方法で現在でも民族の歴史を披露できる訳ですが、過去にそうしてきたという問題ではなく、将来はどうだろう? ということも考えなくてはならないと思います。

ゲッティンゲンの科学映画研究所に、私たちが撮ったハンティの熊送りの儀式に関する科学ドキュメンテーション・フィルムの素材が、中途半端な形で置いてあることは承知しています。結構ユニークなものになりそうなので、なるべく早く編集し終えて、完成させたいと思っているのですが... この仕事は、エストニアの革命(独立)以前に始めたものでした。当初、私は政治と研究を平行してやって行くつもりでした。その内、革命に積極的に係わるようになって、1989年には、外務省に来てしまいました。それ以後もフィルム完成のために、関係者に連絡は取るようにしているのですが...  

しかし、シベリアの人々の間にも、私たちに起こったのと同様な問題が、突然起こったりして... シベリアの人々と、私が言うのは、シベリア各地の先住民族のことですが、彼らは自分たちの文化を何としても守って行こうと思って、以前から、私に多大な協力をしてくれていた人たちなのですが、その人たちもまた政治に大きく巻き込まれてしまいました。  

1989年の冬に、私は自分の息子をシベリア北部の小さな村の学校に送り、そこの学校の先生たちと連絡を取りました。ご承知とは思いますが、あの一帯の人たちの問題は、何よりも人口が非常に少ないということです。非常に限られた人口しか持たない少数民族の中でも、ごく少数の人々が、自分たちの言葉であるハンティ語で、テキストを書こうと意欲を燃やしています。私の仕事が休み休みやっているように見える理由の一つには、そういう状況があるのです。彼らがそうでもして、いまやり遂げたいという事の理由は、私には良く理解できるのです。 

それは彼らが、ここ250 年間で初めて、積極的に自分たちの運命に係わることが出来るチャンスを掴んだのですから。私は、 250年と申しましたが、シベリアは、この間にいわば秘密裏に植民地化されていきました。まず、ロシア帝国は、カザフスタンから大平洋までを侵略し、それからロシア帝国主義者の打ち立てたプロパガンダ政策に沿って、約1世紀を掛けて、誰にもその名前を知られていない戦争を、西シベリアのオスチャーク族−ハンティ人と、ボゴル族−マンシ人に対して仕掛けたのです。  

それが平和裏の統合ではなく、激しい抵抗と戦いがあったということについてここで一つ覚えておいていただきたいことがあります。フィンランドの探検家デ・カストリが回想記に書いていたのですが、彼が西シベリアのある村を訪ねたとき、その村の名前は忘れてしまいましたが、そこで、彼を家に案内してくれた男が、一世紀も前の植民地化された時の抵抗戦争の話を、まるでちょっと前に起こったことの様に話すのを聞いて、大変驚いたと書いています。 もうお判りでしょうが、ハンティの人々も、いま自分達の歴史を語り伝え、問題の解決法を得るための絶好のチャンスを捉えようとしており、また、実際、それが実ったのですが、自分たちの文化の将来について考えているのです。

1992年4月7日 エストニア共和国外務省外務大臣執務室にて



TOORUMI POJAD
トールミの子供たち (西シベリア、ハンティの熊送り儀礼)

レナート・メリ作品 1989 16mmカラー 59分
エストニアTV・YLE−2()・IWF共同制作

テ キ ス ト (翻訳: 岡田正子・岡田一男)

00'18" 静寂、森と大河、これがハンティの世界です。

01'07" ハンティはオスチャ−クとも呼ばれ、ハンガリア、エストニア、フィンランドと共通の語源の言語グループの人々です。

01'42" 今日でも、ハンティは森に暮らす猟師(かりうど)であり、漁師です。彼らは生活に必要なもの全て、熊のための社や捧げものの柱ばかりか、カマドも、美しい橇も、森で見つけた物から作ります。

02'07" ハンティは2つの家を持っています。狩の季節が終る春には、冬の丸木小屋から川岸に移動します。各々の家族はそれぞれ、漁場と漁撈小屋、夏の丸木小屋、ボートを作る川岸の土地を持っています。河こそが、彼らの食料庫であり、重要な交通路なのです。

02'35" ハンティの人口はおよそ2万人。彼らは、西ヨーロッパと同じの広さの地域に暮らしています。それは丁度、ベルギーの国土に300人の人間が暮らしているのと同じ人口密度です。ハンティは、ユーラシア大陸最古の狩猟文化を保持しつつ、ぼう漠とした空間と時間をその手に収めることを学んできました。永い歴史を経て、ハンティの土地は、インドや中国との通商ルートの起点、ユグリアと呼ばれるようになりました。そして古代のユグリアは長く血生臭い植民地戦争の末、モスクワ公国に征服されました。しかし、ハンティの精神は決して消え失せませんでした。現在も、大都市に暮らすハンティは人口の僅か1パーセントに過ぎず、彼らの人口の3分の2が今も奥地の川岸に住み、母語を話しながら森の生態倫理を守って暮らしています。自然から得たものは、人命をも含めて全て自然に返します。何故ならば、命とは一時的に人間に貸し与えられたものなのですから。 今日、クマをライフルで撃ち取ったヴァシリー・ティルチンは、アガン川の岸辺の住人です。一族の者は、クマがこの地に来ることを前もって知っていたに違い
ありません。岸辺に着いたクマは、敬愛する親戚のように迎えられます。

04'50" ヴァシリーは既に森の中で、土地の人の言い方を借りれば、クマの外套を開き、長靴と手袋を脱がせ、熊の永遠の魂を、一時的に宿った身体からとき離しています。

05'32" クマの到着

   触らないで、脅かさないで、私が森を歩くとき    
    脅かさないで、春に私がサクランボを摘みに行くときに
    脅かさないで、秋に私がコケモモを摘みに行くときに

06'02" クマは、最高神トールミの子であり、そしてハンティはトールミの民なのです。ハンティの既婚女性は夫の年上の親戚から顔を隠す習慣がありますが、クマは誰にとっても年上の親戚で、誰でもその結婚相手になるかも知れない存在なのです。

06'33" 最高神トールミは、その子をアガン川の岸辺に住む、ハンティの一族に会いに差し向けました。クマはいわば全権特使です。クマが現れたと言うことは、アガン川に住む、この一族に与えられた神の恩寵です。全ての人々が、それを喜び迎えます。一族は再び、森や河を護る民として、至福の時を認められたのです。しかし、全権特使が来てくれたとなれば、迎える人々には当然の仕事が待っています。トールミの子には、しかるべき「家」が要るのです。

07'10" クマに「家」を建て、この動物界の親戚を手厚くもてなすために、クロマツの幹、シベリアマツの根、シラカバの樹皮を用意します。

08'10" それから房々した葉をつけたシベリアマツが必要です。マツの樹は、トールミのお気に入りの樹です。

08'40" シベリアマツの根を上手に取り出すには、器用でかつ腕力が要ります。

09'03" シラカバとシベリアマツは、アガン川の対岸−左岸から求めました。

10'37" 斧を振るって、スピリドンは「熊送り」の記録棒を彫ります。記録棒は、これから始まる儀礼の間に完成されるものです。記録棒は歌を呼び覚まし、その歌はクマを呼び覚まし、神の元に送り返すのです。

11'04" 女性は晴れの装いに余念ありません。ほどなくトールミの子は「家」に運ばれます。

11'38" シベリアマツの根は、革鞭のようにしなやかになりました。この処女林においても、錐弓矢、小舟といった猟師の道具には、ブタペストやターリンやヘルシンキと同じ呼称がつけられ、彼らが6000年以上の歴史を持つことをうらづけています。

12'08" スピリドンは、記録棒の頭の部分を四角く彫っています。

12'24" 「クマの家」には、キールと呼ばれる小さな囲炉裏が築かれ、火かき棒と櫛が添えられます。

12'35" 6本足のヘラジカは、トールミの遣わした動物です。言伝えでは、大昔の大洪水の後、猟師はこのヘラジカに追いつくことが出来ませんでした。足が6本もあって、とても逃げ足が速かったからです。

12'52" トールミの子であるクマには、ベルトやハンカチ等の小物を入れるため、クーントと呼ばれるシラカバの樹皮のポーチが贈られます。

13'04" さて、どうやら儀礼の用意は整いました。88歳の老シャーマン、イヴァン・サポーチンは儀式用の装束を身につけます。

13'30" ヴァシリー一族の儀式用衣装は、高床式倉庫に仕舞われています。夏の倉庫は川辺に、冬の倉庫は少し奥地に建てられますが、どちらも鍵が掛けられることはありません。ハンティの住居は森の中にあり、長い間誰に狙われることもなく安全でした。しかし、最近は事情が変わってしまいました。

14'58" 森の中の最古の建造物である高床式倉庫は、古代狩猟文化の象徴です。猟師は、その中に季節の衣類や、貯蔵食品を仕舞います。高い柱の上に建てられているのは、ネズミなどの動物から貯蔵品を護るためです。ユーラシアの森の古代人は、美しい調和を保つ建造物を手始めに、自然と折り合いをつけるハンティの民族的なセンスを磨いてきました。

15'40" 6本足のヘラジカも用意されました。一族の人々は、トールミの子がこの世での最後の時を過ごす家の竣工式に、集まって来ました。

16'44" 送りの儀礼の行なわれる丸木小屋の背後の壁の方から、時計回りの輪を描く様にして、トールミの子、クマが運ばれて来ます。背後の壁とは家の背中、屋根は家の腹、屋根の間に開けられた窓は家の腹に開けられた眼を意味します。その眼は、神に向けられます。空の高みにおられる神は、その眼を通して家の中を覗き、囲炉裏をはっきり見ることができます。トールミの子にとっては、屋根につけられた眼は、出入口の意味もあります。

17'33" 神の全権特使であるクマは尊敬され、充分にもてなしを受け、美しく着飾っていなくてはなりません。クマは飾りたてられ、食事をもてなされ、慰労されて神の国に送り返されます。しかし、トールミとその子の方にも、もてなしているのはトールミの民、ハンティであり、クマの甥っ子たちであると、是非とも認めてもらわなければなりません。そのために人々は、シラカバの皮で作った面をかぶり、その頭を空に向けるのです。レスリングでは、男たちがクマと猟師の格闘の真似事をします。儀式全体を通じて、「我々こそ本当のハンティであり、トールミの民である」と言うことが主張されるのです。

18'28" 「クマの家」は、場所も礼を尽くして人間の夏の丸木小屋の中に建てられます。背後の壁と囲炉裏の中程の、丸木小屋の長軸上に設置されますが、それはトールミの子が、ドア越しに南の空を見られるようにと考えてのことです。

19'03" 大きなマツボックリをつけたシベリアマツと、そのおいしい種は、トールミの子の大好物です。トールミが、ときどき銀の針のようなシベリアマツの枝先を優しく撫で、それで葉先がフワフワとなったと信じられています。

19'33" このシベリアマツは、バルト・フィン民族のクリスマスツリーの遠い祖先であり、「クマの家」と彼らの神との間を取り持つ、生きた媒体なのです。

19'50" クマの目は二つの星です。もうすぐクマは星の視野を取り戻すことでしょう。

20'16" ヴァシリーの銃弾と「出会った」このトールミの子は、雌グマでした。それで、ハンティの婦人がその身を着飾るように、クマも美しく飾られます。クマの鼻面に置かれる、彫りを施された木製の剣の柄は、夏の家の中央軸を指します。その位置からすると、クマの視線はドアを通し、アガン川の夏の宿営地やハンティの土地を突っ切って南の空に向かい、過去を超えて伝説の大洪水の昔に向かいます。

20'50" クマの爪を飾っているのは、ヒシクイの足輪です。その鳥は、1980年1月30日にオランダのカーストミア鳥類観察ステーションで、ジェイ・バーガース氏によって標識され、アガン川で猟銃で捉えられました。今から2、3日の間に、この鳥の魂もまた、クマの魂と共にトールミの元に帰っていくことでしょう。

21'16" クーントと呼ばれるポーチに、クマの食べ物が入れられます。

21'45" クマが目を醒ます前に、モミの煙で夏の丸木小屋が清められます。

21'55" クマの小屋は完成しました。ピョートル・クプランディエフが、いよいよ目覚めの歌を唱い、二つの星であるトールミの子の眼の覆いを外します。

22'21" 歌 1.

    川辺でベリーを摘んでいて、    
    あなたは人間に出会われた 彼らはあなたを村に案内し、用意した寝所に招きました
    人は皆、あなたを尊敬し、そして申します
    「獣の中の獣よ! 心からお迎えいたしましょう」
    芝居に、踊りに、陽気な宴会
    手持ちの晴れ着であなたを飾り ご馳走三昧、飲み放題
    大いに歓待いたします それでも、あなたは森を思い出す
    森のあなたのお家には、お部屋が沢山あるのでしょう
    ああそれなのに、帰り路を忘れておしまいになりました
    森のお国のことならば、ベリーが何処に生えるのか?
    冬が何時やって来るのか? あなたは全てお見通し
    弟、妹たちは申します
    「神の国ですくすくと、暮らして来られた
    神のような、あなたこそ、全能のお方」

23'46" ヴァシリーは目を覚ましたクマため、囲炉裏に火を入れます。囲炉裏から煙が立ち上りました。煙や水には清めの働きがあります。撒かれる水は、健康と幸運をもたらすとされています。

25'36" アガンの夏の宿営地の周囲の森は、とてもきれいに整えられています。ハンティと森の関係は、農民と畑の関係よりも濃密です。祖先が土となり残ると信じられている森、そこからいろいろなものが作られる森に供物が運ばれます。そんな時でも、斧の刃は土地を傷つけることがないように注意が払われます。森の中で歌われるクマの歌は、さながら森の音そのもののようです。

26'08" 歌 2.
    私は今、トールミの家に座っています
    マツテンとクロテンの足跡に囲まれた家に
    全能の神トールミ、我が父は
    私に命じて言われました
    「我が魂の一人娘よ、地上の民の間に居を定めよ」
    7人の男に身を守られ、私は天より地上に舞い降り
    川の岸辺の森の縁に降り立ちました
    定められた場所を求め、さまよい歩き続けました
    風のような速さで、川から男がやって来て男は私に言いました
    「トールミが私の妻になるようにあなたを遣わされた」と
    男は私に言いました    
    「私と共に暮らし、アガンとトゥロモ・アガンの川を守ろう」と
    男は私に言いました
    「素直に同意しないなら、そこは力較べで決めよう」と私は力では優ってはいたが、
    彼はなかなか狡猾で
    私を魚用のまな板に押しつけた
    ツルツル滑るまな板に足をとられて転んでしまい
    私は男に抗議して
    「そんなの卑怯よ」と叫びました
    男は私に言いました
    「それじゃ、丸木舟競争で決めようじゃないか」
    必死で舟を漕いだのだけれど
    舟はちっとも進まない
    それに引き換え男の舟は
    ぐんぐん進む矢のように
    私の舟が石の錨でつながれていたのを見つけ
    怒って水に飛び込んで、アガン川に駆け戻ると
    男は私に云いました
    「私の妻になれよ、さもないと、
     お前の漁網を引き裂くぞ
     お前の森をなぎ倒すぞ」
    「私の妻になれよ
     二つの川の守り手に!」
    間もなく、男と私の息子が生まれ
    森の神となりました
    ある時、アガンに災難降り掛かり
    川がすっかり干上がった
    すっかり困って、息子に助けを求めて言いました
    「何とかしてよ! 弓矢を持った男でしょう」
    息子が川で見たものは、デンと座った大男
    川に大男が座り込んみ それで水が堰き止めらた息子は弓に矢をつがい、
    ヤッとばかりに矢を放ち
    しっかり射止めた大男
    河は流れて男を呑込み、アガンの岸に打ち寄せた
    水の流れは瞬く内にアガンの岸辺を水浸し
    森の中まで水浸し 息子は私に聞きました、
    「僕はどうすりゃ良いのだろう?」
    どんな母でもするように、
    私は助言してやりました
    「アガンを湖から遠のけて、流がしてやればよいでしょう
    それから忘れずにアガンの口は、トゥロモ・アガンとつなぎなさい」
    人は皆、息子に礼を言い、贈られたお礼の品々は、
    森の全ての宝物、動物と鳥、樹木と草
    親子は今では三人で、仲良く暮らしているのです
    夫はトゥロモ・アガンに、私はアガンに息子は、その中間の森に

29'28" 歌 3.
    大きく強い動物が森の中、さまよい歩いておりました
     トゲの刺さっさた両足を痛々しくも引きずって歩き続けておりました
     その時声が遠くから、湖を渡り、水面を渡り、優しい身内の声が言いました
    「ここにお入り、トールミの子よ! あなたの場所はここにある
    森をさまよい歩いて久しい、もうここいらに落ち着きなさい」
     時が過ぎ、4つの痛みも癒えたトールミの子
    踊りあかしている内に、誇り高き男の姿、像となって出来上がる
    頑丈な分厚い樹の根も粉々に、それからまた固められ粉々になった頑丈な分厚い
    樹の根は
    今ではあなたの4つの部屋のどれかに集められている
    草むらに身を伏せ、大きくて強い動物よ!
    悪い運をもたらすものを追い散らせ!
    追い散らせ!

30'03" メスのクマは4日間、オスは5日間もてなしを受けます。毎夜、クマは寝かされ毎朝、起されます。今日が何日目なのかは、「クマの家」の前面の壁に削られた刻み目で判ります。夜の間に刻み目と刻み目の間が削り取られ、削りかすは、就寝中のクマの傍らに置かれます。その間だけ、祭の主催者は解放され、座ってものを食べることが出来ます。クマにはアガン川に関する270曲の歌が捧げられます。延べ40時間、4万語以上の詩が捧げられるのです。この世の創造について、大洪水について、また朝を向かえるごとに新たなる始まりを迎えると信じられる、人生の始まりについての伝説を詠った、口承のみで語り継がれてきた、いつ消失しても不思議ない珠玉の文学作品です。この日々再生を語る伝承文学の存続は、全くこの一族の記憶に頼っているのです。

31'15" 最初の夕べ

    こっちにも何かおいしいものを廻してよ!こっちの端にも、お廻し!
    踊りに興じている内に、頭の頭巾がずり落ちてしまった
    今は、きちんと結いなおしたけれど
    そっちの人々にも食べものを!
    そこの隅のご婦人は、何にも食べていないじゃないか

32'52" スピリドンの語り

    私は、この夏の宿営地で44年前に生まれた
    ワト・ジャウォンと呼ばれ、細い川の河口にある魚や獣は、すっかり減ってしまった
    ヴァチュヨガン川の表面を、分厚い原油の層が覆ってからね
    死んだカワカマスが、アガン川まで流れて来る
    魚は石油まみれになって、食べられたものじゃない
    石油のまみれた鳥は、もう飛べないし、死ぬほか無い
    石油のせいで、我々住民は皆、肝臓障害を引き起こしている
    狩猟に出ている間、我々は雪を溶かして飲み水にしてきた
    ところが、冬の間に雪は油煙で真っ黒さ
    天然ガスの排ガスが油煙になるのさ
    今じゃ、体を洗うこともできやしないし
    油煙混じりの水だって飲まなきゃならない
    その結果が、一族全員の肝臓障害だ
    多くの者が肝臓病で死んで行く
    アガン流域の村じゃ、一年に3回も保健婦が交替する
    保健婦は、住民のことも、薬のことも、全く何にも知らないんだ
    私は以前、この近くで丸木舟を使って漁をしていた
    ところが、川岸に石油採掘従業員の宿舎ができると
    目を離して10分もしない内に、漁網は盗まれるってことになった
    私たちは「聖なる湖」からいつでも魚を釣ったものだった奴らが湖を汚しちまい、
    魚はいなくなっちまった 湖の底に貯った砂をポンプで吸い上げ、あちら側の岸に
    積み上げる 昔は6トンの魚がとれたが、今じゃ300キロがいいとこさ
    製材所は森を切り開く 動物の住む場所だってもう無いよ
    狩りをするとなれば、家族を引き連れて、ずっと遠くに行くっきゃない樹木は機械で
    バサバサ切り倒される
    倒された樹は倒されっぱなしさ
    燃えちまってさ。今じゃあるのは、黒こげの燃えかすだけさぁね
    私は街には住めない
    森で生まれて、森で育ったんだから
    森にいた時にぁ、朝起きたらすぐ魚釣りか、狩りに出たんだ
    その森があったところが、今じゃ原っぱだよ
    これからどうやって生きてきぁいいのか、わかんないよ
    昔は、北の森林ツンドラに行って暮らそうか、なんて思ったものさでも森林ツンドラだって、
    今じゃ油田になっちまって
    全くお手上げさぁね
    ロシア人たちが私らの土地を全部とっちまった
    狩りに出ることも、今じゃできやしない
    倉庫にしまっておいたものだって盗まれるしさ何もかも、自分と一緒に運びまわらなく
    っちゃならなくなっちまった
    アガン川に沿って道路ができた。それを石油工場の労働者が使う
    奴らはトラックから私らのトナカイを撃つんだ
    文句は云ったさ。だけど、
    奴らの上役は、彼らとトナカイの肉を山分けして食べてる仲なんだ
    偉いさんに手紙を書いて
    ハンティの漁場や猟場を、私らの為に確保するように言ってやったさ
    ハンティの漁場や猟場を荒す権利はないってさ油田のポンピングユニットで
    汚されたアガンの水にサカナは死んでる
    森林ツンドラの湖じゃ、ポンピングユニットの周りは干上がっちまった
    魚はずっと遠くの湖に行かなきゃ見つからないよ
    でも、ずっと遠くなんで、とても一人じゃ行かれない
    学校で私らの子供たちは、労働を習うんじゃなくて、盗みを習ってくる
    昔はそんなことはなかった
    私らの息子が漁師や狩人になれるのか、分からない。心配だ
    焚火をするとき、私らは火が森に広がらないように気をつける
    斧の刃が地面を傷つけないように気を付ける
    土地って言うのは、私らにとっちゃ傷つけたり、
    皮をむいたりするもんじゃない
    自分の皮膚と同じだもんな
    ロシア人たちがやってきて、その地面の皮膚を傷つけ始めたとき
    ハンティは死に始めた
    昔、ハンティは70才位までは生きてたよ
    それが今じゃ14才、20才、30才で肝臓疾患で死んでいく
    それに、ハンティで自殺する者もでてきた
    昔はそんなことはなかった
    奴らはここに新しい街を建てようって言ってる
    でも、新しい街ができれば魚も動物もいなくなってしまうじゃないか
    モスクワに陳情書を書いて送っても
    テュメニで差し止められてしまう
    私は自分たちの土地を守りたい
    でも、皆が私たちの許しを得ないで、ズカズカと入り込んでくる

38'22" この楽器は、ナル・ジュウ、「遊ぶ樹」と呼ばれます。夜になると寝かされるクマは、2日目、3日目、4日目と朝になるたびに起されます。歌に代わって楽器の演奏、遊戯や儀式なども行なわれます。

39'03" ヤコブ・クプランディエフは、艶っぽいおどけた仕草で、眼の見えない主人への訪問者を演じます。

39'17" 盲目の主人への訪問者

    奥や、お茶を入れておくれ
    わしぁ、耳が疼いてならない、もしやお客でも来たのかえ
    お客にゃ、ご挨拶をしなけりゃな
    こんな所に寝ておいでだ。随分と太ったお方じゃないか
    太った体に足が4本とくりゃ、こりゃ何だ?
    斧で真二つにぶったぎらなきゃな お待ちなせぃ、お客人、手を貸してしんぜましょう
    おや、なぜお逃げなさるんで?
    手をお貸ししようとしただけなんですがね

41'32" 夏の丸木小屋の玄関先、クマにもよく視えるところで、「力くらべ」の競技が始まりました。神の全権特使−クマを決して退屈させてはなりません。そして、クマには、この家の者たちが、「クマにとって親類」「ハンティの中のハンティ」だと、認めてもらわなくてはならないのです。

42'45" ティモフェイ・ケチモフは、トローグ・サブル・ジュウと云う名の楽器で「小さなガン」と言う曲を演奏します。

43'03" 「クマ送り」で歌われた歌は全部、記録棒に印をつけて刻み込まれます。演奏した曲がとても良いとなると、三つ分の印が刻まれます。

44'18" 実は一族のこの年長者の歌は、一族の者の心の中とこの映像にのみ生きています。すでに、彼の霊はあの世に送られてしまったのです。

44'39" カンムリカイツブリの歌は、大洪水に関するものです。大昔、全世界は大洪水に見舞われ、水浸しになりました。オオハムとカイツブリは、水に潜っては、クチバシで水底の大地のかけらをくわえては、地上に積み上げようとしました。オオハムは怠け者でしたが、頑張りやのカイツブリは、ようやく三度目に大地のかけらを引き揚げることができました。すると、大地のかけらは、みるみる大きく広がり出しました。すると、全ての動物たちが、我先に大地に這い上がりました。ただ息切れをしていたカイツブリだけは、大地に登り損ないました。それ以来、カイツブリは自分の巣を水上に作らなくてはならなくなったのです。

45'20" 歌 7.
    ああ、聖なる火の、聖なる鳥よ 大地は、お前の子どもの育つところ水に呑込まれ、
    希望もなく、失われて行く ああ、聖なる火の、聖なる鳥よ
    水の底から、失われた大地のかけらを引き揚げておくれお前のくちばしで、
    ひとかけらづつ

45'35" アガンの母親は子供が6才になるまで母乳で育てることもあります。子供は4才になると2才の弟妹の面倒を見はじめ、6才になると、両親のしていることを見様見真似で手伝うようになります。年齢によるギャップはありません。若いものは、年長者から引き継いだ遺産を、自分自身の経験と視野に従って受け継いでいきます。

46'29" 記録棒には「熊送り」の儀礼の大筋の構造が記録されています。歌の数々と主な式次第、また熊送りの際に特別におこったこと等。1988年に行った時に、1985年の我々の調査旅行のことが記録されているのを発見しました。この記録棒は、文字を持たないハンティの文学を再現するための手段であるばかりでなく、狩人の年代記であり、備忘録なのです。

47'32" このちょっとエロチックなシーンの主人公はジェポッグと呼ばれるワシミミズクです。これは、かつての豊饒呪術の名残りなのでしょう。ワシミミズクは恐怖感を引き起こすと言われてはいますが、実際は、年嵩の婦人たちが、少し怖そうな振りをするだけです。やがて、ワシミミズクはリス狩用の丸い矢じりの矢で撃たれて殺されます。

48'37" 
    部屋の中のミミズク 戸口に進み、女をお抱き
    両の足の間にぶら下げているのは、
    一体なんだって言うのだえ
    どこかへ行って、その棒をぶつけておいで

50'52" 天気も、この儀礼の進行に重要な役割を果たします。うららかな陽射しは人々を戸外に誘い出します。夏の丸木小屋の前庭は、人々が踊るのに充分な広さです。人々は疲れきるまで踊り続けます。踊りには、厳しく型が決まった箇所と即興の箇所が組み合わさっており、ここにも石器時代から綿々と保存されてきた「熊送り」の儀礼の秘密が隠されているようです。

52'43" ツルは、トールミの子であるクマに、自分の巣を荒されたと不満を述べたてます。

52'50" 歌 8.

    水べりの南の方
    南の水べりのそのまた向こう
    岸に沿って南の方
    南の方の岸辺の向こう
    我らの聖なる地に向かい
    私は何処までも飛んでゆく
    善良なる父、全能なるトールミの
    定めに従い、果てしなく 両の翼は、邪(よこしま)な生きものは、空に持ち上げない
    地上より、雛でさえも持ち上げない
    ああ、コウノトリよ、いとしのコウノトリよお前は巣を見つけたね
    そこで子供を育てようと
    ああ、コウノトリよ、いとしのコウノトリよ
    遥か遠くの湖のとんでもない若造が
    わがまま三昧大暴れ、地面を荒して大暴れ
    鳥の巣壊れ雛どりは、みーんなみまかった
    とんでもない若造が、雛どりたちを傷つけた
    トールミよ、一体私にどうせよと
    ああ、コウノトリよ、いとしのコウノトリよ
    若造また来る、どうしよう
    二度と若造来ぬように

53'50" 熊を撃った男、ヴァシリーには熊撃ち用の重い弓が渡されます。彼の役目は6本足のヘラジカを打って、猟師が射止められる4本足にすることです。

54'46" 4日目の夜更け、トールミの全権特使を送り出す時がやって来ました。トールミの子は、暖かい場所ですっかり甘やかされ、出来る限りのもてなしを受けました。弾に「当たった」のは事故でしたが、一族全てと知合いになれました。これは、別れではありません。トールミの子は、数千年にわたるハンティの森への帰り道とトールミの民たちの居場所への帰り道をしっかり教え込まれたのですから。



55'26" 歌 9.
    あなたは、まさに火打石  
    あなたは、まさに火打石
    あなたの父は、全能のトールミ
    あなたは、父と母とともに歩む
    あなたは、父母に清められ
    父母より火となることを教えてもらい
    父母より動物たることを教えてもらう
    森を行き、他の動物と共に生きることを教えてもらう
    もし、トールミがあなたを見捨てれば
    森で生きる道はなく、動物として生きる道もない
    たとえ道の途中で人の足跡見かけても
    あるいは人に鉢ち合せしても
    決して恐れることはありません
    人はあなたの姉妹であり、兄弟なのだから
    トールミの思召しにより出会うのだから
    夢ゆめ姉妹、兄弟に闘い挑むことがないように
    あなたは気高き神なのだから、決して見間違うことはないでしょう
    あなたが微笑めば、人は皆笑います
    あなたがくつろけば、人皆同じようにくつろぐでしょう
    人は皆、こぞってあなたを誉めたたえるでしょう
    人は皆、こぞってあなたを崇めるでしょうあなたは、家の腹についている眼から
    出てきました
    家の中に留まることなく、眼を外に向けてください
    夜の帳が上がる頃、あなたはここを立ち去ってください
    終わりなき、務めの終わりの時が来たようです  

注: 日本語スーパー版のテキストとは若干内容・表現が異なります。

2002.08.12.更新



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