「雅楽」刊行に寄せて 高円宮憲仁親王
雅楽と皇室との縁は深い。雅楽に関する最も古い記録(「日本書紀」)は五世紀半ばまで逆上る。第十九代允恭天皇の大葬(四五三年)に新羅国からの楽人が哀悼の歌舞を奏したという。この時点で日本人が雅楽を演奏していたかどうかはわからないが、もしまだであったとしても、それほど長い年月を経ずして取り入れられたことだろう。
大宝元年(七〇一)には、現在の宮内庁楽部のルーツにあたる雅楽寮(うたまいのつかさ)が設けられ、大陸、半島からの音楽・舞踊を管理する体制が整う。こうして雅楽はわが国に根を下ろし、日本で作られた曲も加えられていった。
歴代の天皇や皇子の中には雅楽を愛でた方も多い。嵯峨天皇や仁明天皇は名手として知られておられたし、醍醐天皇の弟の敦実親王は作舞までされたという。京都の他も奈良の南都楽所、大阪の四天王寺楽所などが生まれ、明治になってそれらが統合されて東京へ移り、現在までその伝統が受け継がれてきた。
大学卒業後カナダヘ留学した時、いろいろな人から日本の伝統音楽、舞踊、演劇について質問をされたが、実のところこれには参った。西洋の音楽やバレエには多少の知識を持ち合わせてはいたものの、わが国の伝統芸術に関してはほどんど知らなかったからである。音楽好きを自認していた私はこれに深く反省し、帰ってからは能、狂言、歌舞伎、雅楽、邦楽などの公演にはできるだけ行くように心がけている。毎年春と秋に開かれている宮内庁楽部の定期公演にはだいたい顔を出しているからかなりの数の管絃を聴き、舞楽を観たことになるのだが
- 勇を鼓して本音を言えば - いまだによくわからないでいる。
いったい世界中の音楽は、その曲特有のメロディを持つことによって他の曲から区別されることで在していると思われるのだが、雅楽には必ずしもそれが当てはまらない。よく知られている「越殿楽」などは別として(それでもこの曲には三種類の調があり、例の黒田節の本歌かと思えるのは平調で、あとの二つはまったく違う曲に聞こえる)、何種類もの定型フレーズの順番によって、この順ならこの曲、この組み合わせならあの曲、という風になっているのが多いらしい。私もこのビデオシリーズをじっくり勉強して、少しはその謎を解きたいと思っている。
雅楽・舞楽の中には中国や朝鮮半島のものはもちろん、遠くはベトナムのあたりから来たといわれる曲も残っているが、現在の大陸にはその音楽的痕跡は残っていないといっても過言ではないだろう。平成二年に楽部と共演した大韓民国国立国楽院の演奏を聴きにいった時も、共通点といえるものは全く見いだせなかった。大陸においては、後からやってきた民族や文化がそれ以前のものを破壊ないしは覆い隠してしまうのに比ぺて、日本までたどり着いた文化は太平洋に阻まれてそれより先に伝播することができず、海岸の崖に刻まれた断層のように、積み重なりながらもその切り口を見せて同時多重に存在できるのかも知れない。
千五百年の長い長い時の中で日本に根づいた雅楽・舞楽は、アジアの遠い記憶を今に残す、貴重な文化・芸術遺産であると思う。その遺産を私たちの先人が大切に守り続けてくれたことに感謝するとともに、それを未来に正しく伝えていくうえで、この映像と音の記録は大きな役割を果たしてくれるだろう。
この文章は高円宮様が、ビデオシリーズ 重要無形文化財 雅楽 宮内庁式部職楽部 映像解説1 のためにご執筆下さった全文です。
掲載開始 2000.04.10.
最終更新 2001.04.22.