特集「フィルムは記録する'98 日本の文化・記録映画作家たち」に寄せて

戦後科学映画の光と影

岡田 一男 Kazuo Okada
 
初出 NFC NEWSLETTER (Vol.IV No.2) 東京国立近代美術館フィルムセンター NFCニューズレター 第18号掲載 (発行1998.03.02.)


世界の科学映画の歴史を見てみると、第二次大戦の混乱から回復した1950年代中頃から 1960年代はじめは、一つの黄金期であった。アメリカや西ヨーロッパさらには、東側社会主義諸国も競い合うように優れた作品を発表していた。戦勝国アメリカでは、産業映画や教材映画製作が盛んで、大学視聴覚センターも充実していた。イギリスではシェル石油や英国国鉄が自ら映画班を持ち、優秀な短編映画を製作し、フランスではジャン・パンルヴェら個性的な映画作家が気を吐いていた。敗戦国ドイツも国営の科学映画研究所が動態的映像記録が必須の科学分野を絞り込み、エンサイクロペディア・シネマトグラフィカの構想を発展させた。一方、東欧諸国もソ連圏と一括りに出来ない個性を発揮していた。ソ連は自然ものを中心に、劇場公開用長編科学映画を数多く製作し、中国や北朝鮮も、後に続こうとしていた。 

まさに、そのような時代に我が国には、15年に満たない短期間であったが、優れた科学映画を精力的に製作し、内外で高い評価を受けたプロダクション、東京シネマがあった。東京シネマは、短い有限会社時代を経て1954 年に株式会社化され、当時、初めて長瀬産業により輸入され、東洋現像所(現・イマジカ)で日本での現像が可能になったイーストマンカラーネガと大沢商会が輸入を始めたアリフレックス2Aカメラを使用し、大企業をスポンサーとする短編映画を製作し始めた。

当初の作品群は、今回フィルムセンターで組まれる特集に含まれる、ビール会社のために、ビールの製造工程を詩的にうたいあげた「ビール誕生」に加え、地方の電力会社のために、地域の大切な電気消費者である農民に農村電化をアッピールする「粟野村」、化学会社のために、重要な商品コークスの消費者である地域の鋳物業界に、正しいキューポラ操作を啓蒙する産業映画「鋳物の技術 -キュポラ熔解-」であった。これら作品のスタッフは、新たな可能性である色彩表現に綿密な配慮をし、それまでの文化映画、短編映画とは、ひと味違うみずみずしい感覚の、広告臭を感じさせない作品に仕上げた。3作品は、いずれも国内で受賞し、「ビール誕生」は外国映画祭でも高い評価を受けて、新しいプロダクション、東京シネマは注目を集めた。 

その後の数年間に、電力会社スポンサードによる、「この雪の下に」、「新しい米作り」、「東北の祭り」などを継続して製作する一方、国際電気通信会社のための電波通信技術の啓蒙を図る、「太陽と電波」や、製薬会社スポンサードによる医学分野の「クロロマイセチン療法」に取り組み、顕微鏡微速度撮影を駆使した「ミクロの世界 結核菌を追って」の成功で、世界的に評価される科学映画プロダクションという地位を獲得した。 

プロデューサーである岡田桑三、顕微鏡撮影に秀でたカメラマンの小林米作、脚本家である吉見泰の3人を中心とした製作体制のもとで、新たなスポンサーに電気製品メーカーや石油会社などを加え、1960年代前半には、毎年のように数本の注目すべき作品を世に問うことに成功した。優れた作品を製作するには、潤沢な製作費が必要だが、当時は未だ、大企業の広報宣伝費が、テレビ媒体のみに流れることはなく、短編映画製作に大型企画を組むことが可能であった。 

しかし、60年代中期に、東京シネマの製作は失速した。急激な成功はスタッフの数を激増させ、量と質のバランスや、コストパフォーマンスを悪化させた。スタッフ間の価値観の相違や感情的な齟齬が団結を失わせ、製作体制の維持を不可能にした。直接的に視覚化できるテーマには有効であった製作手法も、抽象的なテーマには苦労が多く、効率を悪化させた。エレクトロニクスの原理と神経の仕組みを対比した「結晶と電子」、日本列島の生い立ちの壮大な地球規模のドラマを映像化した、「美しい国土」などは、高い評価は受けたが、企業としての体力を著しく消耗させた。東京シネマは、1961年、科学映画への貢献に対し菊池寛賞を、1962年、優秀科学技術映画製作に対し科学技術功労賞を、さらに19 65年、科学映画における国際的業績に対し朝日文化賞を受賞するなど、社会的にも高い評価を得たが、破綻は免れなかった。大企業の方も次第に短編映画製作よりも、テレビ番組のスポンサーとなることの効率に眼を向け始めた。 

会社自体は、プロデューサーの岡田桑三が死去する1983年まで維持されたが、東京シネマの本格的な活動は、株式会社としての1954 年の出発から、製作体制の整理に入った1966 年までで、沖縄国際海洋博の大型映像の製作を機に新たに発足した東京シネマ新社に制作活動が移行継承される1973年までは、「うま味と生命」や、筆者の最初の作品「人間の心と社会」など評価を受けた作品製作もあったが、再生への過渡期であった。 

既に東京シネマが活発に活動した60年代からは40年近くが過ぎようとしている。しかし東京シネマ作品は、幾つかの理由から良好な状態で生き残った。

それは:

1) 作品の数が100作品に満たず、作品リスト整備も含め保存が比較的に容易だった。

2) 8割以上が35mmイーストマンカラーネガ原版の作品で、現像も東洋現像所のみで行っており散逸を免れた。現在もカラー作品完成原版は全て、イマジカの原版保管庫に保管されている。

3) 作品内容が、長期の使用に耐え、後々、プリントの機会に恵まれた。主要作品は、高画質のビデオ画像に変換するチャンスもあった。60年代中頃、未だ初期作品「鋳物の技術」の発注があると、岡田桑三は胸を張っていた。

4) 加え、多くの作品が製作者側の持ち込み企画で、自らが著作権者である意識が明快だった。スポンサーとの製作契約書に、まず著作者東京シネマとうたい、著作権が厳然として製作者側にあることを示していた。 

動く映像の世紀、20世紀が終わりに近づき、時代の証言に様々な動画像が求めら、短編映画は重要な資料の一つである。そうした資料に、良好な保存と必要時に直ちに参照できる態勢が必須である。昨年の催しに、山本克己氏は、短編映画作品の散逸を憂慮されたが、筆者はむしろデジタル保存がままならぬビデオ作品の危険性は遙かに深刻と考える。日本の動画像100年の歴史の中で、1970年代末からの20年間は、空白の20年となり兼ねないのだから。


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