『沖縄久高島のイザイホー』と全素材デジタル化への道 5

                              岡田一男(公益財団法人下中記念財団評議員・東京シネマ新社代表取締役)

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 本祭が終了した後もお願い結び(シデガフー)や終了祝いまでは、島に滞在したが、フバワク撮影のため、谷口ら一班を残して筆者は東京に戻った。現像
手配、録音テープの16mmシネテープへのリレコ手配など山のような後処理がまっていた。この時代、未だカラーフィルムの価格と白黒フィルムでは価格
自体にも、現像費にもかなりの開きがあった。そのため、ラッシュプリントは大部分を白黒フィルムとした。

 1979年版-102分は、撮影素材のごく一部である。2020年秋に保管してきたオリジナル素材を検尺したが約950分あった。2021年2月に、未発表に終わっ
た1時間版原版類が見つかった。これを加えると、1000分を少し超す。1979年版は、NHK放送文化財ライブラリー内に事務局を置いた任意団体、伝統文化
財ライブラリーに納品されたが、その完成原版は、デュープネガであった。というのも、およそ撮影を許された数日間のカミアシビは、基本全て頭から尻ま
で、同期録音で複数カメラで記録し、それらをエンサイクロペディア・シネマトグラフィカに収録する予定であったからだ。その時の自由を確保するため、
デュープネガでの納品となった。現像作業をしたソニーPCLは当時、フジカラーネガフィルムで、デュープネガを作成する新技法を確立しており、1954年
の創業以来、一貫して現像を依頼してきた東洋現像所=イマジカから一時的に、他社に乗換えたのである。

 結果的には、エンサイクロペディア・シネマトグラフィカへの収録は幾つかの理由で実現しなかった。1979年秋に東京と大阪で開催されたEC国際編集会
議で予備的な上映と報告が行われている。これらの上映プリントも保管されている。当時、EC国際編集会議は、初代編集長G.ヴォルフから二代目H.-K.
ガレ(1933-2006)への移行期にあたり、さまざまな問題を抱えていた。その懸案の中にはイザイホーのような長大になる事象の処理の問題があり、その
動向を慎重に見守る必要があった。

 一つは、ナレーションの問題である。従来型の同期音声のみで処理すると、見ている多くの者に理解困難なものを、付属論文に記載すれば良いと言う訳に
はいかなくなってきたのだ。実験的にドイツ語や英語のナレーションを付した作品が、ECフィルムに収録されるようになってきた。さらに、従来の垂直型の
本部と支部という関係が、現実にはそぐわなくなり、水平型の、志を同じくする科学映画施設やアーカイブの集合体への移行、さらにECフィルムへの収録を
認められた作品の配給も、推進した支部を通じて行う事例がでてきた。これは、ウィーンのオーストリア連邦国立科学映画研究所(OeWF)が先陣を切った
が、EC日本アーカイブズも追従を目指していた。

 ところが、次々と、イザイホーのEC収録作業より、優先されなければならない課題が現れた。102分版「イザイホー」の成果は、それ以降放送文化基金特
別プロジェクト終息の1984年まで、伝統文化財記録保存会の作品制作を担当することに繋がり、毎年1作品の割合で、伝統文化の記録保存を行うことになっ
た。加えて、東京シネマ新社としては、初めてのテレビ番組制作が始まった。正味内容2分10秒の5分枠の子供向け自然誌番組「楽しいどうぶつ百科」を、
月‐金の夕刻に帯番組でやろうというもので、年間250話分を担当ディレクター2名の一人として分担、編集・ナレーション執筆に加えて、国外の既存映像の
手配もリサーチ、版権交渉の一切を引き受けることとなった。このため、2年半にわたり、年間100日以上は国外にでることとなった。スタッフの一部は、顕
微鏡撮影による海洋生物の記録や、細胞生物学に関する制作を続けており、さらに、テレビ番組の利潤を投入して、北海道で野生生物映像を撮り始めた。放
送番組に向けた動きでもあったが、同時に生物系の細胞生物学や動物行動学としてのECフィルム制作を目指したものであった。

 その中で、1983年初秋、父である岡田桑三が他界した。桑三は夏まで、短時間ではあるが出勤していたが、最後の40日あまりは入院した。既に大部分の
プロデューサー業務は、引き受けていたが、プロダクションの社長業と映像アーカイブ所長を兼ねることは、40歳あまりのディレクターとしては、重圧であ
った。プロダクションの維持も容易で無かったが、EC日本アーカイブズも新規の仕上げ費をねん出することは困難であった。新規のEC収録候補の制作は東京
シネマ新社の制作活動によることとなった。80年代後半には、8枚組のレーザーディスクによる「動物映像大百科」の制作に追われた。「楽しいどうぶつ百
科」の収益は、16mm撮影機材整備と16㎜フィルムによるキタキツネの親子関係の行動を記録するのに投入したが、「動物映像大百科」の収益は、ビデ
オ撮影機器整備とエゾタヌキの親子関係の行動・生態記録に投入された。

 80年代末からは、北海道立北方民族博物館の映像収集に参画することになった。長年、EC国際編集会議やIWFにとって、EC活動の東欧・ソ連圏への拡大
は大きな課題であった。それへの一助にもなろうかと、北方圏全域を回って、民族誌映像の所在調査と入手交渉に明け暮れた。折からソ連は崩壊期を迎え、
政治・社会情報番組「サンデー・プロジェクト」のソ連取材、特に要人インタビューのコーディネーションまで加わった。こうした中でも、「イラブー漁」
のポジ編集、音付などは行ったが、各論編仕上げ費の捻出はままならなかった。下中記念財団の財政事情は当時もかなり厳しかったが、1992年の財団創立
30周年を控え、一時的には改善されて、ECJA発足以来の懸案だったアイヌ初期フィルムのデジタルビデオでの整理が実現した。

 1992年は、ECフィルムにとっては創設40年の年であり、秋にはゲッティンゲンのIWF大ホールで祝典とともに最後となった国際編集会議が持たれた。両
独は統一を果たし、東西冷戦の消滅に、多くの人々が明るい未来を信じていた。編集会議の席上で、旧ソ連からの最初のEC収録フィルムと期待されていた
西シベリアの狩猟漁労民、東部ハンティのクマ送り儀礼の記録に携わっていたエストニアの映像作家、レナルト・メリ(1929-2006)が旧ソ連からの独立を
回復したエストニア議会からエストニアの大統領に指名されたというニュース報道に接した。その春、岡田は「サンデー・プロジェクト」の取材で、外相を
退いた直後のメリに外務大臣室でインタビューしたおり、ECフィルム収録への進捗も問いただしていた。徐々にではあるが進めているという答えだったが、
大統領就任で、収録は絶望と直感した。その暗い予感は数年後にあたった。1996年にH.-K.ガレがIWF所長を退任すると、後継所長は、ECの編集長をガレに
残したまま、EC活動を継続しなかった。正確には、できなかったのだろう。そして所長職を退いたガレにも、できることは殆ど無かった。

 IWFは旧東独までサービスエリアを拡大したのに、厳しい統一コストに予算を1/3以上カットされ、結果として多くのスタッフが退職を余儀なくされ、次
第に疲弊を余儀なくされた。ECフィルム活動は徐々に終息していった。その終息には、国際編集委員会の一員として、納得しがたいものがある。IWFの人々
は、あるいは活動再開を目指したのかもしれないが、現状分析と事後対策を国際討議に付さなかった。これが後日、大きな問題となった。IWFは民営化され
たが、疲弊を深めて、結局、2010年に施設閉鎖を迎えた。IWFの膨大な映像遺産は、オリジナル原版は、コブレンツの連邦アーカイブで厳重保管され、第
2コピーの運用は、ハノファー大学と密接な関係にある、ドイツ国立科学技術図書館(TIB)に引継がれた。しかし、TIBは国際組織であるECとは、直接の
継承性がないので、TIBは、ECフィルムの個々の作者ごとの気の遠くなるような権利関係再確認・再交渉を強いられた。

 これらの事情を本稿で書き連ねるのは、とりわけ、エストニアのメリの後輩たちの活動を筆者がイザイホー・デジタル化のモデルケースとして参考にして
いるからである。メリがハンティのクマ送り儀礼の記録に取組んだのは、1980年代の半ば、ミハイル・ゴルバチョフが春先、ソ連共産党書記長に就任して間
もない85年晩夏である。1930年代後半からソ連では、クマ送り儀礼は、厳しく規制され、実施は弾圧された。その規制がほころんだ瞬間、乱脈な石油開発
に苦しんでいた西シベリアの先住民たちは、自前の民族組織を結成と同時に、民族再生の象徴としてクマ送り儀礼の復活を目指した。それを側面から支えた
のが、同じフィン・ウゴル語系民族であるメリら、エストニアの映画人たちであった。

 メリは、モスクワの映画行政に直接縛られる、それまでの映画撮影所ターリンフィルムではなく、エストニア共和国政府の管轄するエストニア・テレビ放
送撮影所制作とし、製作費に余力を持たせるため、共同制作のパートナーとして、フィンランドのテレビ局と西独の科学映画研究所(IWF)を引込んだ。
IWFには、エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ収録を約して、40時間分の16㎜カラーフィルムを提供させた。85年の撮影だけでは、足りず、87年
夏に再撮影が行われた。89年にテレビ放映用の60分版「トールミの子どもたち」が完成し、オリジナル完成原版と40時間分の全撮影フィルムはEC収録用に
ゲッティンゲンのIWFに送られた。だがシベリアでもエストニアでも政治状況は激変していった。メリは、旧ソ連エストニア共和国の外相に任命され、西側
世界への権利回復情報の発信と、モスクワとの激突回避の困難な政局の立役者の一人になり、フィルムの分析どころでは無くなっていった。

 2000年代を迎え、メリは10年の任期を全うして大統領職を退いたが、健康を害して映像の世界には戻れなかった。大統領職の半ばで、それでも70年代末
にロシア極北、タイミル半島のトナカイ狩猟民ヌガナサンのシャマンの降霊儀礼を記録し、ソ連当局による没収を避けるため、フィンランドの民放局のフィ
ルム保管庫に隠したフィルムを20年後に執念で編集・完成した。完成を知って、エストニア共和国大統領府ウェブサイト投稿箱に、是非見たいものだと投稿
した。直接の返事は無かったが、数か月すると、フィンランドのTV局から「シャマン」のベータカムカセットが送られてきた。

 晩年のメリに後輩たちは、彼の全民族誌映像を集成し、「レナルト・メリ フィン・ウゴル語諸民族のエンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」と題
して公開することを約束していた。そして、既に閉鎖に向かって危機的状況にあったIWFと交渉して、「トールミの子どもたち」の完成原版と40時間分の全
撮影フィルムをエストニア側に取り戻した。2007年には、エストニア映画100年を記念して選定されたエストニア映画100選にメリの全民族誌作品が選ばれ
たのを機に、国費での2K高画質デジタル化を実現した。メリ存命中には間に合わなかったが、2014年、メリが自由に会話できたという7ヶ国語対応の3枚組
DVDアルバムが完成した。彼らはまた、東部ハンティのクマ送り映像のデジタル映像でのアーカイブ化を目指して活動を続けている。

 このDVDを見たとき衝撃を受けたのは、その画質の素晴らしさだった。メリの大部分の作品は、北海道立北方民族博物館の収蔵作品になっており、放送用
規格のコピーを保有していたのだが、
オリジナル原版から2Kスキャンで作成したDVDは、手持ちの放送用規格映像より、遥かに良い画質だったのだ。エス
トニアのデジタル化が如何なるスキャナーを使用したかは不明だが、同時期に東京光音はそれまでのFSSテレシネに替わる次世代スキャナー導入を模索して
いた。筆者もたまたま、4Kスキャナーに関心を持ち調べていたので、レーザーグラフィックス社のスキャンステーションについて情報提供を行った。数か
月後、東京光音はスキャンステーションを採用したとのことだった。さらに、沖縄での映像技術展でスキャンステーション採用を告知したいということで、
デモ画像にイザイホー未使用ネガを提供し、保存中のネガの状況と高画質デジタル化の意義を確認できた。


 2017年秋に日本映像民俗学の会は、奄美大島、奄美博物館と共催で年次大会を持った。この会期は、秋名アラセツ行事の見学が織り込まれており、シチョ
ガマの会場で録音中の宮里千里氏と立ち話する機会があった。その前年に筆者は、イザイホー撮影ネガのデジタル化の構想を彼に書き送っていたが、返事が
ないままになっていた。宮里氏は、構想については記憶されており、企画書を知合いの副知事に取次いでも良いと言って下さった。後日、企画メモを送った
が、当時の概算でのデジタル化費用1500万円が、ネガティブに響いたか?ご返事が、またなかった。宮里氏には、「久高島イザイホー 宮里千里 琉球弧の
祭祀」というCDがあり、非常に印象的な氏の解説文が付されている。

 この年次大会で、会代表の北村皆雄氏から、三島まき先生を紹介された。以来、イザイホーフィルムのデジタル化について、意見交換をさせていただいて
きた。こうした中で、2019年秋に、衝撃的な事態が判明した。国立映画アーカイブの収集担当、大傍正規氏から大型上映企画「戦後日本ドキュメンタリー再
考」の上映候補に「沖縄久高島のイザイホー」が上がっており、ついては16㎜ニュープリントを発注したいのだがという相談をうけた。ずっと手持ちのプリ
ントから作成したベータカムのSDコピーを運用しており、ニュープリント作成は良いお話であった。

 作品原版はNHKの放送文化財ライブラリー(当時)に納品してあるので、NHK管理になっている筈、NHK知財センター、アーカイブ部と交渉しましょう
と、大傍氏と二人して代々木公園のNHK放送センターを訪問した。こちらの希望をお伝えして、調査していただくと、知財センターには、伝統文化財記録
保存会作品群のデジタルデータや、ポジプリントはあるが、16㎜完成原版は保存されていなかった。その経緯は古いことで、良くわからないということだっ
た。ただ権利関係として、全編放映の場合には三隅治雄先生にご連絡するべしという、注意書きが残っていた。

 NHKのフィルム業務を担当しているYOKOCINE DIEなどに残留した可能性がないので、三隅治雄先生に照会のお電話をしたところ、当初、ご自分とは関係
ないというご返事だったが、数日後、訂正のお葉書をいただいた。そしてご子息の三隅吾一氏から、詳細を聞いてほしいということであった。以下が、三隅
吾一氏から伺ったり、付随調査から判明した事柄である。

①  伝統文化財記録保存会の1974年から84年までに制作された17タイトルの作品群の16mm完成原版は、「沖縄久高島のイザイホー第一部・第二部」を
含め、ポジプリントや一部デジタル化された素材とともに、事務局のあったNHK放送文化財ライブラリー(後年NHK知財センター、アーカイブ部に改組され
た)に2000年代初めまで、保管されていた。

②  NHKのフィルム資材は2003年2月に川口市スキップシティーのNHKアーカイブに統合されることとなり、伝統文化財記録保存会作品群については、
NHKに帰属するのは、非独占的な放送使用権のみであるので、完成原版は返還の対象となった。

③  伝統文化財記録保存会は、放送文化基金の特別プロジェクトが終了以降、活動を停止しており、既に代表理事であった本田安次氏も故人となられて、
NHK側は、本田氏の会運営を補佐されていた三隅治雄氏に相談した。結果として、三隅治雄氏が引取られることとなり、放送センターに赴いて、引取ったの
は三隅吾一氏だった。2002年ごろだったという。

④  当時、三隅治夫氏は外務省管轄の公益法人民族文化交流財団の理事長で、事務は三隅吾一氏が統括されていた。引取られた完成原版類は、同財団事務所
に保管された。NHK側に残った関連物から見ると、筆者が担当した後期作品群の16㎜プリントも一緒に引取られた可能性が高い。

⑤  2010年ごろ、民族文化交流財団は経営破綻し、その混乱の中で、完成原版類は行方不明となった。廃棄されてしまったという確証はないが、2019年末
以来、三隅吾一氏に探索をお願いしてきたが、見つかっていない。この経緯については、三隅吾一氏から国立映画アーカイブ、大傍正規氏同席で伺った。

⑥  こうした事態を受けて、三隅吾一氏には探索の継続をお願いする一方、当面の国立映画アーカイブでの上映には、NHK知財センターから保存のD5カセ
ットマスターからBD-Rを作成していただき、さらに次善策を次のように講じた。

A) 完成原版が見つからない場合のマスターとして扱う16㎜ポジプリントを17作品一括で、国立映画アーカイブに寄贈し、最善の保存処置をお願いする。

B) 伝統文化財記録保存会が活動を停止して、著作権の消滅も論じられているが、NHKとしては、三隅治夫氏を権利継承者と見なして事務を進めてきたの
で、三隅治雄氏の了解をいただき、著作人格権の尊重を条件に、他社作品も含め、筆者が三隅氏に替わって権利継承者として、寄贈実務を進める。NHK管理
下にある16㎜ポジプリントは、三隅治夫氏からの返却依頼書とし、筆者が引取る。

C) NHKからは、デジタル化が未完了のまま返却するので、放送業務に使用希望が出た時には、迅速に対応して欲しい旨、念を押された。NHKに保管され
ていた16㎜プリントは、岩波映画作品2本、ジャパン・フィルム・センター作品9本で、東京シネマ新社・下中記念財団分6作品については、東京シネマ新社
が保管してきた初号プリントを提供することで、全作品を揃えた。

D)  既に、全17作品の国立映画アーカイブ相模原収蔵庫への搬入は2020年秋に終了し、国立映画アーカイブ側が、受入れの事務処理にかかっている。