音楽の先生



脚本と演出、ラウレンティー・ソン、撮影、アレクセイ・キム、作曲、ヤコフ・ハン、エクゼクティブ・プロデューサー、タニベルゲン・ハジーエフ。制作、カザフスタン共和国大統領府ラジオテレビコンプレックス、1994/98年撮影、1998年作品

英語版 ロシア語版


あらすじ

この話の主人公は、私がウズベキスタンの集団農場、ボリシェビークで朝鮮人についての記録を撮影中に初めて知り、彼の小さな顔写真を頼りに消息を4年にわたって捜した人物です。その人の名は、イリヤ・テイテルバウム。1910年にリトアニアで生まれ、ヴィリニュス交響楽団の指揮者でした。

1941年の6月に(ウクライナの)キエフに客演中に、戦争が勃発、全てのオーケストラ団員は、NKVD=内務人民委員部から政治法令第58条による様々な刑期で、ソ連各地の建設現場や産業施設へ政治流刑の処分を言い渡されました。イリヤ・テイテルバウムは、(ウズベキスタンの首都)タシケントの運河建設の現場に送られ、指揮棒のタクトの替わりにツルハシを握ることとなりました。建設現場は、朝鮮人集団農場(コルホーズ)、ボリシェビークからほど遠からぬところにありました。コルホーズの構成員は、全員が日本帝国主義を利するスパイ行為の濡れ衣を着せられ、1937年に極東から強制移住させられてきた朝鮮人でした。それ以来、ソ連の指導部は、朝鮮人を政治的に信頼できない人々と見なしてきたのです。 

当時のコルホーズの議長だったキム・グワンチャクは、非凡な人でありました。農業に豊かな経験を有し、意志の強い組織者で、あらゆる問題に関し、あらゆる階層の上部機関と交渉する能力がありました。

そして、芸術の愛好家でもありました。自分のコルホーズで、時間を持て余している鼻垂れ小僧たちに目的意識を植え付けようと、農産物と交換に様々な楽器を手に入れていました。彼は、子供たちに楽器の扱い方を教えてくれる人を捜していたのです。文化担当の副議長は、黒んぼグリーシャと呼ばれた本当に色の黒い男でしたが、キム議長の命令で適任者を捜していました。彼は、運河の建設現場で働く囚人に関心を寄せました。 

あんたユダヤ人だな? 黒んぼグリーシャが訊きました。 はい、そうですが。 だったら、あんた音楽家に違いない。我々には、あんたみたいな人が必要なんですよ。  

こうして、黒んぼグリーシャは、議長に適任者を見つけたことを報告しました。キム・グワンチャク議長は、あらゆる手管を行使し、賄賂の提供によって、イリヤ・テイテルバウムを朝鮮人自身がそうであった特別移住者という取扱いに書き換えさせ、自分が保証人となって彼を自宅に引き取ったのです。特別移住者としてイリヤ・テイテルバウムは、毎月1回治安当局に出頭を義務づけられました。イリヤ・テイテルバウム
は、こうして、流刑期間の5年を、この集団農場の議長の家で過ごしました。彼は非常に病弱で、ほとんど失明状態の身でした。彼が視力を回復するまで、1年近く議長の末息子のボーリャが、彼の杖代わりになっていました。イリヤ・テイテルバウムは、集団農場の学校でドイツ語を教え、残りの時間はキム議長との約束に従って、子供たちに音楽の法則と様々な楽器の取り扱いかたを根気強く教えて行きました。

まもなく、子供たちの楽団は、タシケントの傷病兵病院への慰問や負傷兵の葬儀に呼ばれるほどに成長しました。 キム議長の末娘のスベトラーナ・キムは、イリヤ・テイテルバウムが議長の家にやって来たとき、たったの2歳でした。彼女が語るに、当時の彼女は、立って歩くことがほとんど無いほどに、イリヤおじさんに抱かれていたと言うことです。彼女は今に至るも、1947年に集団農場を立ち去った彼を大人に
なったとき、本気で捜さなかったことを後悔しています。もし今、彼が見つかるなら、その居場所に飛んでいって、彼を自分の家に連れ帰り、自分たちの一家で、彼のお世話をしたいものだ、と語ります。彼女は、自分が彼の娘のようなもので、自分の子供たちは、彼の孫のようなものだと言うのです。彼女は探索を断念したのは、プラウダ紙(ソ連共産党中央機関紙)に、彼を捜して下さいという依頼の投稿をしたとき、
本紙は、尋ね人を扱っておりませんと言う、無味乾燥な返事をもらったときだそうです。 

流刑の刑期を終えたイリヤ・テイテルバウムは、自分の生まれ故郷に戻るつもりでした。しかし、リトアニアには向かわず、ベラルーシに行ったことが後から判明しました。

彼は、立ち去るとき、家族同様になっているオーケストラ団員の子供たちに別れを告げることが、できませんでした。キム議長は彼の辛い心情を察し、秘かに彼を鉄道駅に送りました。しかし、やはり特別移住者で、秘かにテイテルバウムに恋していたポーランド娘のバルバラは、子供たちが演奏の練習をしているクラブに駆けつけ、先生が、彼らの元を永久に立ち去ろうとしている事を知らせました。子供たちは荷馬車を駆って駅に向かいました。とっくに列車は出発しているはずで、無駄に違いないことでした。しかし、運良く子供たちは、車窓に先生を見つけました。先生は、子供たちに見つかるまいと間仕切りに、姿を隠そうとしていました。ふたりの少年、ボーリャとヴァーニャは、クラブにおいてきた楽器を取りに戻ると、音楽の先生が乗った、去っていく列車に向かって、涙に暮れながら、"音楽家への賛歌"を演奏しました。このシーンに
ついては、劇映画の手法で、既に老境に達している当人たち、ふたりのアマチュア音楽家、ボリス・グリゴリエヴィッチと、イヴァン・アンドレーヴィッチに再現してもらいました。 

こうして私は、ベラルーシに取材に行くことになったのですが、イリヤ・テイテルバウムに逢ってみたいと言う期待は、たちまち絶たれてしまいました。彼は、31年前の1967年に亡くなっていました。彼は晩年舞台俳優コンスタンチン・ペリツェル一家と同居していました。俳優の子息,
ピョートル・ペリツェルがイリヤ・テイテルバウムおじさんの晩年の暮らしぶりについて語ってくれました。テイテルバウムは晩年の20年間を
ミンスク市のロシア・ドラマ劇場の指揮者として働いていました。集団農場ボリシェビークから戻って、5年後、彼は再び視力を失いました。

しかし、人生の最後まで現役のオーケストラ指揮者でした。盲人がオーケストラの指揮をするとは、考えられないことですが、彼は素晴らしい記憶力で、とくにベートベンなど、膨大な量のクラッシク音楽を暗譜していました。  

助監督のニーナ・シャデューコワは、20年間にわたってイリア・テイテルバウムと共に働きました。彼女は、カーテンの脇で芝居の進行を見守り、イリヤ・テイテルバウムは、オーケストラボックスの譜面台の後ろにいました。彼らは、簡単な信号システムで意思を疎通させていました。テイテルバウムは、いつも照明用の電球を握っていて、助監督は、音楽の始まりを、電灯を点灯するスイッチを入れることで合図したのです。
手のひらに点灯した電球の暖かみが伝わると、イリヤ・テイテルバウムは指揮棒を振り、オーケストラは演奏を始めました。 

コルホーズのオーケストラには、20人以上の少年がいましたが、今でも4人が残っています。またテイテルバウムの教え子から2名が、タシケントの音楽院に進み、職業的な作曲家の道を歩みました。またもう一人が非常に有名な演奏家となりました。後輩の訓練に努力した教え子が沢山いて、この学校のオーケストラは、世代を越して、偉大な音楽家であり、勇気ある人物、イリヤ・テイテルバウムの精神的遺産を伝えていきました。 

聖書には、人々の記憶の中に再生した者は、再び死に脅かされる事はないと記されています。ミンスク市のチジョフスキー墓地で、彼の墓を見つけました。不思議なことに、彼が1967年の2月に葬られた時、天も涙したのでしょうか?ミンスクの町は、豪雨にみまわれ、その模様が、ベラルーシの国立映像アルヒーフに保管されていました。


1999.08.18. 掲載開始