「コーリョー・サラム」と呼ばれる旧ソ連の朝鮮人について
大阪MILE国際シンポジウムでの報告原稿
ラウランティー・D・ソン 1993.10.23.
( copy right: Lavrenty D. SONG, Almaty, Kazakhstan)
現在「コーリョー・サラム」と呼ばれる旧ソ連の朝鮮人についてお話を進める前に、まず統計的な事実を示し、ご説明したいと思います。
1863年、ロシアの極東の地に6家族の朝鮮人が現われたという記録があります。その数年後には、移住者の数は数千人にも膨らんでいました。そうした中で、同地の知事は異邦人の居住に関する適法性を長時間かけて検討した末、移住者の受け入れを決定し、これら全ての朝鮮人移住者に対してロシア帝国の国籍を取得することを提案しました。その結果これらの朝鮮人はロシア帝国の臣民となることを受け入れたのです。1910年、朝鮮からの大移住が再び発生した際、後続の人々は先に移住していた人々の雇用人として受け入れられました。
それ以後、朝鮮人はロシア人とともに、ソビエト政権を打ち立てた革命、それに続いた集団化...
そして1937年から38年にかけて行われた強制移住と、様々な歴史的段階を経験することになりました。強制移住では、18万人以上のコーリョー・サラムが、カザフスタンと中央アジアのステップに送られました。さらにそれに引き続きファシスト・ドイツとの戦争の体験を経て、戦後の人民経済建設にも参加することになりました。
現在、CIS=独立国家共同体には、約45万人のコーリョー・サラムが暮らし、その内10万5千人がカザフスタンに、15万人がウズベキスタンに、残りがロシア、特にコーカサス地方と、その他の中央アジアの諸共和国に散らばっています。
次に統計から離れて、父祖の地を去り異邦人として生きてきたコーリョー・サラムの歴史を社会心理学的な側面から見てみたいと思います。独自の伝統と文化を持ち、家を大切にする習慣と子沢山の大家族を特徴とする、朝鮮人と呼ばれるわが民族は、アジア大陸のさして大きくない半島に住んでいました。周囲を中国、ロシア、日本という強国に取り囲まれた朝鮮は、度々、国の自立を侵され、領土の侵害に遭遇していました。当然、その地に暮らす人々の暮らしは恵まれていませんでした。貧困に喘ぎ、地主と高利貸しの圧迫で暮らしていくことさえままならなくなったその国の子供たちの中には、よりましな暮らしを求め、他人の土地へ移らざるを得ない状況に陥った者もありました。移住した彼らは、初めて厳しい勤労に見合った、夢にみた土地や仕事を手に入れることができました。
こうして、ロシアという他人の家、他人の家族に朝鮮人は受け入れられてゆきました。朝鮮人は、移り住んだ土地で自分たちの慣習を守り、日夜の労働に励んでいたところに革命が起ったので、ロシア人を含む新しい家族と一緒になって、新しい家となった国のソビエト政権の確立に参画し、生死をともにすることになりました。この様な経過を経て、彼らの住む新たな土地が、彼らの故郷となったのです。やがて、この地に子供たち生まれ、孫たちが生まれました。生来の適応能力を発揮して、母語である朝鮮語ばかりでなく、ロシア語を習得し、ロシア語で教養を身につけました。この土地の先住の人々の言語を学ぶことで、将来への展望が開けると信じたからです。
しかし結局、異国は異国でありました。 朝鮮人の生活が豊かになるにつれ、不思議なことに過去の祖国、それも自国の民に辛くあたった祖国へのノスタルジアが高まってゆきました。しかし祖国への帰還は論外です。そこで、人々は祖国との絆を感じさせる全て−風習とか、言語とか、食事とその調理法とか、教育の尊重など、全てのものを守り通そうと必死の努力を続けました。
全ては順調に進んでいるように見えました。労働に励み、子供をつくり、朝鮮の歌だけでなく、ロシアの歌を唄って暮らす日々が続きました。 その内、ロシア−ソビエトの歌はなぜかより陽気で、より大胆な調子を帯びはじめ、朝鮮の歌に暗く哀調を帯びた響きが色濃くなるようになりました。郷愁に溺れてはいけないと言う、ロシア化された心理に基づいた行動とでも言うのでしょうか、ロシア人とそっくり同じようにするソビエト的生活様式にドップリ浸かるようになりました。
そのような生活の中でも、彼らは勤勉に労働し子どもたちへの教育に力を注ぐことを忘れませんでした。しかし、そうこうしている内にも、ソ連は偽物の社会主義へと逸脱を始め、それは結果的に自国民に対する大迫害を招くことになりました。まず、国民の強制移住と知識人の撲滅が行われました。その結果、朝鮮人は中央アジアやカザフスタンに暮らすことになったのです。移住させられる各家族には、家財道具をとりまとめるため、たった48時間の猶予しか与えられず、貨物列車に詰め込まれ、見知らぬ国へと狩り出されたのです。ひどい時には1ヵ月半もかかった列車の旅で、沢山の老人や子供が死んでゆきました。死んだ朝鮮人は、毎晩、塩気混じりのステップに打ち捨てられていきました。強制移住者を満載した数両の貨車が、バイカル湖畔の急な崖から湖に転落し、翌朝、沢山の朝鮮人の死体が湖に浮いているのを見たと言う、生き残りの目撃者の証言もあります。
しかし、強制移送の始めに連れて行かれた者は、まだ幸運と言えました。彼らはカザフスタンの北部や西部地域に送られたのですが、そこでは約束通り、臨時の住居も与えられました。やがて、時を追って南部地域に送られるようになると、みすぼらしい掘立て小屋を自分で作らなくてはならないようになりました。カザフスタンとウズベキスタンの古文書館には、朝鮮人が極東地方に残した私有財産と、収穫できなかった作物に対する補償をソビエト政権は約束通り補償して欲しいと請求した、文書が残されています。この合法的な要求に対する回答は、ついに出されませんでした。
話が逸れるかもしませんが、ここで私は補償問題に触れたいと思います。と言うのも、CIS=独立国家共同体に現在進行中の社会的・政治的状況を全く考慮しない朝鮮人の中に、現在、今申し上げた強制移住の際の補償を現政府に要求する者が出てきたからです。パラドックスは、朝鮮人の強制移住の責任者であり、補償を約束したソビエト連邦がもはや存在していない、と言うことです。現在のロシア連邦は、大部分のコーリョー・サラムが、ロシアの領土外に居住していると言う現実があるので、この問題の解決ができないでいますし、カザフスタンとウズベキスタンの当局は、当時、カザフ人やウズベク人自身が大変な困難な状況にあったにもかかわらず、移住者の受け入れには最大限の努力を払った当事者であったと言うことです。それに、カザフスタンとウズベキスタン当局は、当時いかなる補償の約束も行っていません。これらの共和国の、当時の政治的・経済的状況は、植民地そのもので、全く発言の権利を認められていなかったのです。
のぼせ上がった朝鮮人の中には、韓国で日本に被害を受けた人びとに対して、日本政府からは補償が実行されているではないかとして、自分たちの要求を正当化したりする者もあります。こう言った人たちは、強制されて従軍慰安婦にさせられた朝鮮女性に対して日本政府が行った決定を誤解しているのだと思います。私は彼らに「君たちのお婆さんや、ひいお婆さんが慰安婦にされたのかね?」と聞きたいものです。もちろん彼らは、慌てて「とんでもない!」とか、「俺たちの家族にそんなお婆さんはいなかった!」と言うでしょう。 たとえ今、ロシア、カザフスタンあるいはウズベキスタンの政府が補償を実行したいと望んでも、今の彼らにはそのような財政的裏付けはありません。第一もし、補償をしなければならないとしたら、それは朝鮮人に対してだけでは済まないのです。対象はスターリンの民族政策に苦しめられた、殆ど全ての旧ソ連の国民に膨れ上がってしまうのです。確かにロシア、カザフスタン、ウズベキスタンでは、両親が強制収容所で亡くなったり、流刑地で死去したものの遺族に、一様に一定の特典を与えるという形で補償をすることを決議しています。しかし、無実にもかかわ
らず殺された人々の人生は、幾らお金を積まれ、補償されても償うことはできないと、私には思えるのですが...
話を戻しますと、朝鮮人は新しい他人の土地で暮らすことになり、掘立て小屋を建て、塩気混じりの土地を改良して、生存を図りました。勤勉に労働し、土地改良を効果的に行う生来の能力を発揮し、生き延びることには成功しました。そこへ振って湧いたようにファシスト・ドイツとの戦争が勃発したのです。ソビエト式の教育を真面目に受けとめ、イデオロギーを受けいれていた朝鮮人は、愛国心に駆られ、他の全ソ連人民とともに祖国防衛に参加しようと願いでました。
ところが結局、軍隊には入れませんでした。数カ月間、若者たちは徴兵事務所に押し掛け、前線に送って欲しいと要請を続けました。しかし、彼らの願いは黙殺されてしまいました。拒否された落胆は大きく、家路につく道すがら、自棄酒を飲んでは、理由もなく喧嘩をする若者が多かったと聞いています。その中には喧嘩の末、命を落とすものも出たそうです。「ああ! 俺たちは二級市民でしかないんだ!」と言う絶望感の結果だったと思います。新進の作家、アレクサンドル・カンは、こうしたよそ者としての朝鮮人の劣等感について筆を振るっています。
ソ連という大きな家と大家族の中で、朝鮮人は実の子とは、認めてもらえなかったのです。コーリョー・サラムは、自分たちが異国にあり、他の人々とは平等でなく、実の子とは認めて貰えないのだと言うことを再認識させられる結果となりました。この様なコーリョー・サラムの運命は、ソビエト・ドイツ人、クルド人、クリミア・タタール人の運命とよく似たものがあります。 戦争は終りました。スターリンは勝利の絶頂期にあり、再び自分に不都合な人々、とりわけ知識人の撲滅を全力で再開しました。ロシア人をも含めて、全ての民族の苦しみが始まりました。人々は、お互いに避けあい、各々他人を密告者ではないかと疑うようになりました。法的には誰も何の権利もない状態がつづき、馬鹿げた異常な結果を産みました。何も知らないのに、突然に自分はアメリカ、イギリス、日本、あるいはイタリアのスパイだと言うことにされたりするようなこともありました。そんな時でも、当人は、何故自分が、牢獄や収容所に放り込まれたのか良く判らないと言った事態がしばしば起きました。収容所に入れられるまで、村の会計係だった一人の朝鮮人老人にまつわる悲喜劇について私の未完成の作品の
中で、詩人のカン・チャースが語っている箇所があります。この詩人が老人に、「貴方はどうして、収容所に入れられたのか?」と質問をした処、この10年の刑を言い渡された老会計係は、「どうしても思い出せない。」と返事をしたと言うのでした。ところが後日、この老人が詩人の許に嬉しそうに飛んで来て、大声で叫んで言うには「とうとう、思いだしたぞ! 俺は、反革命罪を宣告されたんだ!」。と言うことは、この老会計係は、反革命とは何かさえ、全然判っていなかったのです。
最も高邁な人間的尊厳を徹底的に貶め、品性や文化を踏みにじり、財産は全人民のものとしながら、その実、ごく一部の共産党の政治的頭目たちが独り占めするような、馬鹿げた空想による経済を鼓吹した、あの国家とは一体なんだったのでしょうか。人々は、その国を祖国と信じていました。それもたった一人の人間に具現化し、その人物のために死をも厭わないと信じさせられていたのです。その国家においては、常に創意が押しつぶされ常に国家の利益が個人の利益に優先され、偽善と巧妙な嘘をつけば出世の階段を昇ることができるという代物でした。さらに恐ろしいことには、人民民主主義を名乗る国々には、そういったイデオロギーが文字どおり暴力により押しつけられました。また、その国家では、少数民族の言語が禁止され、民族学校が廃止され、全ての芸術が大国主義政策と共産主義イデオロギーにのみ奉仕させられました。そこでは、民族の自決権については、連邦に加わることは可能であるが、自らの意志による離脱は決して行えないという考えに支配されていました。諸民族の友好とは、好き放題を行えるロシア人を長兄として敬うと言うことを意味していました。
私は、一人の若者が、ロシア人ではなく朝鮮人に生まれてしまったことを心の底から悩んでいたことを、今でも忘れることができません。また、私より年配の友人が、軍事学校を卒業した時、わざわざロシア人の女の子と計算づくの結婚をし、キムと言う自分の名字を、ワシリエフという妻の名字に変えてしまったのも覚えています。そうやって結局、彼の本当の狙いであったパスポート、いわゆる国内身分証明書の民族籍欄を「ロシア人」と書換えることができたのかどうか、本当のところは私には判りません。 このような友人たちの振舞いは、それがあからさまなものではなかったにせよ、差別の嵐が猛威を振るっていたことの証であると思います。それは目には見えないものでしたが高等教育施設への入学時の学科を選択する際の制約や、また、軍務や職業についた際の出世の行き止まりとなる天井の存在に、はっきりと感じることでした。特に、朝鮮人を含む少数民族に対して顕著な差別でした。
素晴らしい技術、科学、発明や哲学、そして芸術に代表される偉大な知性を生みだした巨大なロシアの歴史の傍らで、同時にこんなことが行われていたのです。ロシアは、その時代の人間社会の全ての悪を取り込み、偉大なるロシアの民は、一緒に暮らす他の諸民族とともに、これらの悪や不幸を食べては消化しているのだな、と思うことがあります。そしてこれが他の国の人々だったら、こんな試練は耐え難く、あっという間に皆死んでしまうとさえ思うのです。また、社会状況がこれほど酷い状態であったからこそ、トルストイもドストエフスキーも、プーシキンもチェーホフも、ムソルグスキーもラフマニノフも出現したので、現在、全世界が享受している発明や発見をした学者、芸術家、哲学者たちは、この様な世界でなければ、生まれては来れなかったのだとさえ思えてきます。これこそ、本当のパラドックスではないでしょうか?
このような思考回路が生まれることこそが、ソ連における少数民族として生きてきた者の社会心理理学的アトモスフェアなのであります。 ところで、現在、コーリョー・サラムのおかれている状況は、どのようなものかと言うと、それぞれの主権共和国の国家再編成が始まったこの時期にあって、われわれの将来の生活上の問題が全て解決したとは、到底言えません。特に、個々の国、たとえばタジキスタンにおけるコーリョー・サラムの状況には、複雑で解決不可能に見える問題が山積しているようです。それにもかかわらず、そうした諸事情は、やがては好転するだろうと、私は期待しています。 カザフスタンではどうかと言いますと、ここでは朝鮮人とドイツ人に対する好ましい関係が伝統的に続いてきました。そして、朝鮮人に高学歴者が多いことも幸いして、社会の変革への準備が行われていることも好材料として挙げることができます。このことは、銀行など、共和国の中枢を支える責任の重い部署に、沢山の朝鮮人が登用されていることからもうかがえると思います。
1993.10.28. 2稿 翻訳 岡田一男