CIS=独立国家共同体在住離散朝鮮民族
川口市、文化センター「アリラン」での報告
(予稿)
ラウレンティー・D・ソン カザフスタン
1993.10.11. (copy right: Lavrenty D. SONG,
Almaty, Kazakhstan)
CIS=独立国家共同体在住の離散朝鮮民族の発展の展望を語る前に、在ソ朝鮮人、いわゆるコーリョー・サラムが、極東地方からカザフスタンと中央アジアに強制的に移住させられた後の社会的・政治的状況を簡単に分析させてください。
1937年から38年にかけての秋から冬、果てしないステップの荒野に送り込まれた朝鮮人たちの政治的・経済的無権利状態を想像することは難しくありません。まだ、その新しい生活状況に適応しえていない1941年に、ファシスト・ドイツとの戦争という「できもの」が吹き出しました。ソ連政府には、自らが強制移住をさせた少数民族の面倒を見るどころではありませんでした。ですから朝鮮人はソ連全土と共に、あの悲惨な戦争を体験したのです。そして1946年になるとスターリンは、自分の支配下のソビエト諸民族に対する迫害的な政策を再び始めました。ソ連全土はまたも牢獄と収容所という「潰瘍」で覆われたのです。
すでに1938年、その中には朝鮮語も含まれるのですが、全ての民族語を使用する学校と大学(高等教育機関)は閉鎖させられていました。言葉を失うということが、その民族に他の民族との同化を余儀なくさせるものであることは、皆さんには良くおわかりのことだと思います。朝鮮人はロシア語を使うことでのみ、将来の生活を築き、勤労活動に参加できるのだという状況の下で、巧みにロシア語を習得していきました。第一の課題は、とにかく生き延びるということだったのです。
当時の古い世代の朝鮮人は、教育に対する愛着の念を忘れることはありませんでした。1949年にソ連全土の少数民族の移動の自由に関する政令が出ると、朝鮮人の青年たちは、高等教育施設への入学のためモスクワ、今のサンクト・ペテルブルクであるレニングラード、キエフ、ノボシビルスク、オムスク、トムスクなどの大都市に押し掛けました。 けれども差別はまだ続いていたのです。朝鮮人に許されたのは、朝鮮人が住む小さな居住地の集団農場の議長であるとか、中等学校の校長になるということ以上のものではありませんでした。ソ連軍における朝鮮人の栄達は、少佐どまりでした。1980年代の始めまで大学のサイバネティックス、核物理学、宇宙工学など、科学の先端分野を扱う学部への入学は朝鮮人にはほぼ不可能でした。文化とか芸術に関しても特別な困難がありました。朝鮮人は自分たちの創造的な潜在能力や才能を花開かせようという欲求を、ロシア文化あるいは他の多数派民族の文化の下でしか満たすことができなかったのです。そのこと自体には、何も悪いことはなかったのですが、自分の民族的な文化、芸術を忘れるという結果をもたらしたのです。
朝鮮民族文化と言語の保存ということでは、新聞「レーニン・キチ(レーニンの旗印=現在はコーリョー・イルボ=高麗日報と改題されている)」と、朝鮮劇場に大きな功績があります。彼らは物質的、日常的条件が最も困難な下で、朝鮮人の間にあって精神生活を支えたのです。文化と芸術なしには、いかなる民族も存在できないことは、明らかだと思います。それでは、コーリョー・サラムの現状とはどんなものでしょうか? もしも、この問いを1980年代の初めに発したとしたら、答えとしては、次のような三つの区分けをしなければならなかったと思います。すなわち、第一にカザフスタン、中央アジアおよびコーカサス在住の朝鮮人の状況、第二にサハリン在住の朝鮮人の状況、第三に朝鮮民主主義人民共和国からの移住者でソ連国籍を取得したり、居住証明書を交付されている人々の状況というものです。
ところが現在では、コーリョー・サラムの抱える問題は単一化してしまい、ちょうど大部分の旧ソ連の住民の問題と同様になってしまっています。良い側面も悪い側面も、全ての民族の現代生活と共通するものだとも言えるのです。それでも、コーリョー・サラムにこだわって話を続けたいと思います。まずコーリョー・サラムの生活様式の否定的な側面から参りましょう。
1. 朝鮮人は変化する状況に素早く適応する能力に恵まれていると言われています。彼らは、主要民族の住民の側からの明かな競争が存在しない領域で労働に従事してきました。私は1950年代に朝鮮人の大部分が、米づくりというかなりの専門知識を要求され、また自分たちが良く馴れていた仕事に従事していた頃の事を良く覚えています。その後、国営農場での米づくりが始まると、労働はよりきつく誰にでも向いているという訳でないのに、朝鮮人は一瞬の内に、米づくりをやめて玉ねぎづくりに移りました。そして、大部分の集団農場や国営農場も玉ねぎを栽培するという風に、玉ねぎづくりが産業的な段階になると朝鮮人は競争の無いと思われた瓜づくり−とくに西瓜づくりを始めて、信じ難いほどの大儲けをしました。
ところが、政治的にも経済的にもソビエト社会が再編成され、個々の人間の権利や可能性の問題が、国家の高い演壇から語られる時代を迎えると、朝鮮人を含め多くの人々がエネルギーや時間を使うのをやめ、生産部門を去ってサービス部門に移って行きました。多くの人々の仕事は、中小の商取引となったのです。ここで危険な症状が現われました。特別な知的努力を必要としないで稼ぐ、金を稼げば良いとする風潮の中で、朝鮮人青年の多くが大学など高等教育を修めて卒業証書を得ることを放棄し、「無から金を産もう」とするようになったのです。
ブローカー業は派手な色で花開きました。古い世代の人々は始め自分の子供たちの金銭的な急成長を歓迎し、若者たちの成功を時には誇りにさえ思いました。 残念ながら、これがいま朝鮮人の間で起こっている事なのです。経済的な成功という風景画の地平線の彼方には、離散民族の生存能力の全てを失わせかねない、朝鮮人の教育水準の破滅的な低下という恐るべき光景が描き出されているのです。わが青年たちの大部分は、いまや大学など高等教育の学問習得を続けようとは、考えていません。加えて、教育の大部分は有料化され、中流以下の家庭では負担しきれるものではなくなりました。
2. 今日、もっとも哀れな姿に見えるのは、朝鮮人知識人=インテリゲンチアだと思います。離散民族の精神生活の支え手であり、また推進者でもあった、わがインテリゲンチアは、ごく少数の例外を除いて、政治に走りました。彼らは、時に離散民族のためにならないばかりか、新しい民主的な政府が問題解決を妨げるような民族間の相互関係を政治問題化させたのです。もしも新しい国家の民主主義が、民族関係の原則を会得しょうとし始めているばかりだということを考慮するならば、それが誤った道を歩みかねないのは、こうした「できたて」の政治家たちが持ち込む混乱によるとさえ言わざるを得ないのです。
ひとつ例を挙げるならば、朝鮮人協会連合の議長という大変な肩書を名乗る一人の博士(訳注:旧ソ連の博士号は非常に取得が難しい)が、ロシア連邦のエリツィン大統領が様々な共和国在住の朝鮮人に定住してはどうかと勧めた極東地方を、朝鮮人自治区にしろと突然に要求し始めました。当初、地方ソビエト権力(訳注:立法府と行政府が一体化している)も、朝鮮人の受け入れに好意的でした。ところが、その土地に我が「政治家」が押し掛けて自治区設立を要求したのです。当然の事ながら土地の(訳注:ロシア系の)住民や権力機構は警戒し、誠実に父祖の住んでいた土地に戻って暮らすことを夢みて、再びやって来た朝鮮人たちに対して様々な制約を課しました。
そうです。そこは朝鮮自体にも、本当に近い処なのです。でも、今は誰も移住を考えなくなりました。この協会の名誉のためにあえて言うならば、不適当な「議長」を選んでしまったものだということです。
3. 離散朝鮮民族の抱える問題の科学的な解明と発展の予想は? という問いに対する大かたの我が学者たちの答えは、民族文化と伝統の保存と発展という紋切り型のスローガンで帰ってきます。朝鮮語の復活という分野に対する具体的な研究は、まだありません。でも、ここにこそ本当の問題が存在するのだと私は考えます。
大部分の旧ソ連在住朝鮮人は、専門家の間では「コーリョー・マル」と言う学術用語で呼ばれている咸鏡道方言を使っています。これは文法が確立されていない、あやふやな言葉だとされています。しかし、この言葉は一五世紀の昔にその源を発しています。そしてほとんど全ての旧ソ連在住朝鮮人が、これを使っているのです。これはユニークな方言であり、歴史的な日常生活の自然的な法則の中で発展してきたました。現代のコーリョー・マルの中には、ロシア語とトルコ語の影響が見られます。コーリョー・サラムの間で生きてきたこの言葉を忘れて良いものなのでしょうか?韓国、アメリカ、ドイツから来られた宣教師の方々よって、ソウル方言と正しい文法に基づいた韓国語教育が盛んにおこなわれています。しかし彼らは非常に偏狭にコーリョー・マルを排除しようとするか、あるいは、その特殊性に注意を払おうとはしないかです。それ故に、これら宣教師たちの努力は大変なもので、お金も大変に掛けているにかかわらず、たいした効果が上がっていないと私は見ています。私は彼らの努力には敬服していますが、コーリョー・サラムにとって、朝鮮語とその文法の学習には、より効果的な道が
あるだろうと思っています。
この他、少なからず深刻な問題に、同化の問題があります。もし、ある学者が抽象的に言葉と文化の復活について呼びかけたとすると、他の学者たちは、具体的に確信を持って全民族的な復活強化の無益性を証明しようとすることでしょう。そして例証としては−全般的な朝鮮語への文法的無知とロシア語の正しい使用の普及、異民族間結婚、居住地域在住の基本(先住)民族と比べての離散朝鮮民族の生活水準の高さ、などなどが挙げられることと思います。私が学者として尊敬しているゲルマン・キム博士ですら、離散朝鮮民族の再興の必要性とか、再興の可能性に対しては懐疑的です。私は間違っているのかも知れませんが、私にはこの様な予想では、平凡な経験の方が、科学的な分析や離散民族の特殊性の保持の願望より優っていると思えるのです。
そして私は常に決まりきった、うんざりする嫌な言葉を聞かされています。「何で、そんなの必要なんだい?」、「何が一体不味いっていうんだ? 俺たちはちゃんとしたロシア語が喋れるし、それを使って働いて、他の連中よりも暮らしだって良いんだぜ」 そんな彼らに対して、私はこう言いたいのです。
「悪くないよ。我々がロシア語を自由に喋れると言うことは、全く悪くない。だが、もし同じようにカザフ語も喋れるなら、もっと素晴らしいし、もしも我々が自民族の朝鮮語を思いだし発展させて、ロシア語やカザフ語や、その地域の主要言語と同様に喋れるなら最高だよ」と!
私はもしかして、言葉というものにこだわり過ぎるのかも知れません。でもそれは、私が言葉こそが、民族的な文化や独自性、あるいは伝統の最も信頼できる源泉であり、導き手であると確信するからなのです。であるからこそ、スターリンはまずソ連における民族言語の実用を止める処置をとったのです。彼は俗物学者たちの支援もあてこんでいたのです。社会の単一化、独自思考の根絶こそ彼の最大の課題でした。なぜなら、個性を失った人々で構成される社会ほど、統御し易いものはありませんから。
私は民族主義者ではありません。でも私は英国の学者、ロス・キング博士がコーリョー・マルの発展や、そのダイナミックな展開を真剣に研究され、自由に朝鮮語を話されるのを嬉しく思っています。
私はまた、昨年面白い経験をしました。ドイツに留学している8人のトルコ人の学生と出会った時、自分ではそれほど巧いとは思っていませんが、自分が使えるトルコ人に解るであろう言葉として、カザフ語を生まれて初めてトルコ人に対して話してみたのです。ちゃんと意見を交わす事ができて、彼らはたいへん嬉んでいました。
人間は、自分の民族言語であるか否かにかかわらず、あらゆる可能な言語を使って交流を図らねばならないのです。自分のこの確信を現実に証明する作品として、私は「コーリョー・サラム」を撮影しました。この作品ではウクライナ人、カザフ人、ロシア人そしてクルド人がコーリョー・マルと呼ばれる朝鮮語を巧みに喋っています。私はこれから、ギリシャ人、ドイツ人、朝鮮人が、完璧なロシア語とカザフ語を喋っている作品を計画中です。彼らの多くは田舎のカザフ語の学校で学んだのですが、カザフ人自身以上に文法的に正しいカザフ語を喋るのです。
最後に次の事を話したいと思います。最近亡くなられた北朝鮮出身で、ソ連国籍を取得された作家のハン・ジンさんは素晴らしい方でしたが、ある時次のように演壇から話されました。「世界地図からアラル海が消えるなんて事は信じられないが、それが起こるとすれば、それは人間の考えなしからだ。人間にとっての言語的なパレットが改善されるようなことは、あるのだろうか? もし、そのキャンバスから、ある言語が消え去るなら、それは人間の愚かしさと、魂に対する強制に抵抗しようとしない俗物的な怠惰から消えて行くのだ」と。
それでは、今度は離散朝鮮民族の今日の生活に見られる肯定的な側面について語りましょう。
1. 高等教育を受けているという力もあって、経済体制の根本的な変化に朝鮮人は、比較的に良く準備がなされていました。これは、多くの大企業、銀行、施設の責任者に朝鮮人が起用されているという事実からも証明されています。これらの人々は、より自由に自分の労働や創作に関する潜在的な能力を発揮しています。
2. 年長の、あるいは中年の世代は、子供たちに高等教育を続けさせることが是非とも必要だと言うことを理解し始めました。そして有料化された教育に備え始めました。本当の意味でのビジネスには、やはり良い教育を受けた人間が必要とされるということを彼らは悟ったのです。
3. 多くの人が生産に携わらなくてはいけない、それこそが尊敬され、希望もあるものなのだと言うことを理解し始めました。
4. 朝鮮人は、他の大小様々な民族に対する尊敬の念を保ちながらも、自分たちがCISにおける「少数民族劣等感」から解放されつつあります。
これらが − 祖国、朝鮮の子孫である、私たちの現状です。
訳: 1993.10.17. 岡田一男