THE TIME OF DREAMS
記録映画 夢の時代  

解説原稿 演出・撮影   アンドレス・スラーピンシュ (リガ)      フリー映像作家 
脚本             エレーナ・ノーヴィク     (モスクワ)  ソ連科学アカデミー、民族学・人類学研究所
協力             エドアルド・アレクセーエフ (モスクワ)  モスクワ芸術学研究所、民族音楽学者




@ チュコート半島  チュクチ・シベリア(ユピック)エスキモー

00:20  オーストラリアの原住民アランタ族は、この世が創造され、人間社会の決まりごとが定められた神話の時代を『夢の時代 TIME OF DREAMS』と呼びます。この記録映画を、それにならって『夢の時代』と名づけました。人間の生活は、さまざまな社会において神話や精霊に対する信仰に支えられ、自然の力に大きく支配されてきました。シベリアに住むいくつかの民族の伝統儀礼を通して、神話や信仰がどのように文化に溶けこんでいったのかを紹介します。

01:00  ウラル山脈から太平洋にかけて広がるシベリアの広大な地域に29の少数民族が暮らしています。ごく最近まで、彼らの生活はシャマン信仰によって左右され、シャマンを中心とするさまざまな儀礼が執り行われていました。こうした少数民族の内、チュクチ、エスキモ−、ナナイ、ヤクート、エヴェンキ、ウデヘなどの生活を民族誌的な観点から観察する機会に恵まれました。

01:45  撮影の中断がたびたびあったりして、この作品の完成には1980年から1990年の10年間もかかったため、被写体としてこの作品に登場した多くの人がすでに亡くなっています。シャマン信仰の文化は広大な地域に広がっていますが、その広い地域を今から1時間半で旅をしてみることにしましょう。

02:20  シャマンについての十分な理解が、短い時間で果たして得られるかどうか、それは疑問です。大体、シャマンとは一体何でしょう? 魔法使い? 治療師? 即興詩人か音楽家? はたまた、伝統儀礼の達人かその擁護者? 研究者の解答も時代によっていろいろと変化しました。

02:40  今日、シャマンに関する書物は何百と出版されています。シャマンの手にする太鼓に描かれた絵は、精霊の住む神話の世界とこの世を結ぶ道案内する地図のようなものです。シャマンの衣裳には、沢山の木製、金属製の補助精霊の偶像がつけられ、こうした偶像がシャマンに力を貸します。数限りない精霊で武装し、《カムラーニエ》と呼ばれる儀礼に則って、シャマンは眼に見えない超自然世界を旅します。

03:40  精霊がのり移ったシャマンが唸ったり、踊り狂ったりするのを目のあたりにすると同族の信者は不可解な恐怖に駆られるのですが、そうした光景はよそ者には奇異に映るばかりです。

04:05  シャマニズムを信ずる人々は、シャマンを「精霊と親しい者」として崇めています。

04:20  シャマンを、親族の健康と富を守り、狩猟の成功や出産を守ってくれる者として信頼してきました。

05:20  チュコ−ト半島。アジア大陸の最東端です。日付変更線に近く、地球上で真っ先に太陽が昇る場所です。ツンドラの雪原がどこまでも続き、夏も植物がほとんど生えず、海はいつも凍てついています。今からおよそ2万年前、人類が初めてアメリカ大陸へと渡って行ったのは、まさにこの地からでした。

05:50  セイウチの牙絵に描かれたワタリガラスの姿は、神話の時代を甦えらせ、その声は、エスキモー、ヌテテインの唄に再現されています。ワタリガラスは、シベリアのチュクチ、コリヤーク、アラスカのアサパスカン、エイアーク、北アメリカ北西海岸のトリンギット、ハイダ、ツィムシアン、クワキュートルなどの民族の神話の中に、文化の英雄、人類の始祖として登場します。ワタリガラスが光明のボールをつつき、その中から太陽と月を引っぱり出し人間に授けた経緯、また人間に狩猟やシャマンの儀礼の執り行い方を教えたことなどが神話に語られています。

06:30  チュコート半島の伝統的な生活は大幅に変容してしまいましたが、それでも現在の日常生活をすかしてみるとぼんやりと神話の世界を垣間見ることができます。

07:15  一つの例を紹介しましょう。トナカイ飼育民がトナカイの子どもに橇《ナルタ》の曳き方を教えています。家畜になりきっていない動物を調教するのは簡単なことではありません。

07:30  牧夫はごうを煮やすと、『樹に教えておもらい!』と、子どものトナカイをどやすのです。

07:50  チュコート半島南部、ヴァイェギのツンドラ地帯。このコリヤ−ク民族管区との境界地域にチュクチのトナカイ飼育民が住んでいます。

08:10  こうしたトナカイ飼育班には、まだ伝統衣裳を着ている人の姿も見られます。その衣裳にはお守りが付けられ、移動手段として橇が使われ、先祖伝来の唄が唄われています。

08:55  オーストラリアの《チュリンガ》と呼ばれる楽器にも似たこの《テリテル》と呼ばれる楽器の音は、チュコート半島の有名な探検家タン=ボゴラズの時代も、あるいはもっと昔も同じように風を揺るがせ、祖霊への呼びかけに使われていたに違いありません。

09:20  移動する野生トナカイを待伏せして、川を渡るところを槍で狩っていた祖先の時代を、このヴァシリー・イヴァノヴィッチ(アットィト)にしても、フョードル・イヴァノヴィッチ(アイニャウルギン)にしても知っているわけではありません。狩りの様子を伝える光景が芸能となり、踊りとして残され、こうして踊っているのです。言い伝えられなかった民族の記憶を芸能として確かに伝えてきました。

10:10  トナカイの皮を張ったテント《ヤランガ》には、必ず専用の太鼓があります。老人や中年以上の人は誰でも上手に太鼓を叩き、他人から贈られた唄、祖先から受け継いだ唄を、好んで太鼓の伴奏で唄います。自分で踊りを考えたり、唄を作曲したりします。そのことを《チニトキン・クリクル》といいます。

10:50  ダンスと相撲。これから始まる彼らの生業暦上の大切な年間行事、トナカイの出産の前に行なわれる余興です。

11:05  牧夫の合図の声と物まねは、チュクチ独特の喉を使った唄《ピチュゲイネン》の基本形です。

11:30  普通、チュクチはトナカイの屠殺にナイフを使います。儀礼の時だけ《ポイギン》と呼ばれる槍を使います。

11:50  生け贄になるトナカイが、どちら側の腹を見せて倒れるかは、重大問題です。傷を上にして倒れたら、それは吉兆です。

12:10  生け贄を通じて、新しい生命が生まれます。トナカイの仔どもが全部ちゃんと育つかどうかは、人間である牧夫の力だけではどうしようもありません。天気は一定せず、急に冷え込んでトナカイの仔どもが死んでしまうとか、ちょっとしたことでトナカイの群が急に動き出しトナカイの赤ん坊を踏みつぶしてしまうこともあります。

12:40  ある朝、トナカイが死産をしました。早速子どもの皮は杭に吊して日干しにします。

12:50 ヌシ ここいらの土地の主霊を速やかにもてなすと、出産など悪いことの繰り返しは避けられると信じられています。そこで供物が用意されます。生け贄の血は《イパヌイ》と呼ばれ、四方に撒かれます。チュクチは、生きた精霊が四つの方角に存在すると信じています。誰をもないがしろにはできません。精霊だけではなく、宿営地の住民、客、皆にご馳走であるトナカイの血がふるまわれます。

14:30  家の主人は、外界の各々の位置に宿る良い精霊、悪い霊だけでなく、家の守護霊も祀っています。守護霊が悪い霊から家を守ってくれるものと信じ、この家の夫婦はご馳走であるトナカイの脂肪を供物として守護霊に欠かさず捧げます。

15:10  これはこの家族が最も大切にしている神聖な火起しの板《ギチュギ》です。神聖な火をおこします。《ギチュギ》は一族の人間だけでなく、家畜の安全も守ります。それでトナカイの出産シーズンには袋から出して《ヤランガ》の外に出して、妊娠したトナカイの無事を守ってもらいます。

15:35  太鼓はチュウクチにとって単なる楽器ではありません。太鼓の出す音は「声」と呼ばれ、人間だけではなく、動物や精霊にも通じる「声」であるとされています。各《ヤランガ》には神聖な品として、祖先の像、火起し板、お守りとならんで必ず太鼓があります。チュコート半島滞在中、シャマンを専業としている人には会いませんでした。すでに今世紀の初め、シャマニズムはチュクチの社会においては主に親族の間だけで行なわれてきたことが分かっています。太鼓を伴奏として歌う唄は、精霊への呼び掛けとなり、やがて精霊の声を模して陶酔した叫び声になります。

16:15  ツンドラに暮らして、自らを《トナカイの民》と呼ぶ人々とは違って、海岸チュクチやエスキモーは、かつては海獣猟によって生計を立てていました。

16:40  今日、食卓に並べられる食料は自分たちで採った海の幸ばかりとは限りません。近代的な集落に住み、食糧は店で買うようになりました。

17:00  しかし今でもこの地域では、セイウチの頭骨を飾った生け贄を捧げる場所や、このエンメレン村のように海獣儀礼のための祭壇がある供犠場がそこここに見られます。

17:20  セニャヴィン海峡でのセイウチ漁。2組の猟師が捕鯨船と《バイダル》で出発しました。伝統的な《バイダル》は、木製の枠にセイウチの皮を張ったものですが、今ではほとんど使われなくなってしまいました。帆の代わりに船外機のエンジンが使われるようになった今日でも、猟師の役割分担は昔のままです。

18:00  猟師の中でも最も経験を積んだ者が舵とりとして船尾につき、その隣でエンジン係が船外機を操り、舳先には銃や銛を手にした男が陣取り注意深く前方を見守ります。
18:40  チュコート半島の沿岸民は、前世紀の終わり頃から猟銃を使い始めたようです。アメリカやロシアの船がこの地域の産物と弾薬を交換するようになったのです。

19:00  セイウチ猟の成功のこつは、セイウチを傷つけても、決して殺さないことです。獲物が沈まないよう弱らせ、水中深く泳いで逃げないようにすることが大切です。セイウチが息をするため水面に顔を出す瞬間に撃って追い立てます。十分な息継ぎができなければ、次に水面に出て来るまでの間隔が短くなります。

20:20  その場合、次にどこに顔を出すか容易に推測がつき、銛を放つ位置も、時も正確に計れます。銛にくくり付けられた「浮き」は、セイウチを水面に浮かせておくためのものです。

21:20  一度に何頭ものセイウチが捕獲できるような幸運な場合、ボートから切り離し、ついていなかった捕鯨船のわきにくくりつけて岸まで運びます。

22:40  岸辺で待っていると、セイウチやアザラシは美味しい真水を飲もうと、向こうの方から『人間を訪ずねてき』て、猟師の銃器の前に『自分の方から寄ってくる』といわれていました。動物の肉と毛皮は猟師たちのものになり、動物の魂は海に帰っていくと信じられていました。これは苛酷な条件の下に生きる人々が、仕方なく動物の命を奪う際、その残酷さを少しでも和らげようと、都合のよい話を創りあげたものです。しかし、エスキモーの老人によると、クジラは移動期になると岸辺から僅か100から200メートルのところを泳いで行くので、捕鯨がとても楽で、それが『自分から寄ってくる』という言伝えを生んだのだろうということです。

24:00  信じられないような話ですが、昔の漁師は大胆にも銛と槍だけを手にこの大海に漕ぎだし、漁を行っていました。華奢な手作りの小舟で沖合に漕ぎ出し、大きな海獣に挑みました。現在、沿岸の漁師は特殊な捕鯨船で鯨を捕獲します。陸に鯨の巨体を引き上げ、それを捌き、家族で食べる分の肉や皮を分配し、燃料用、あるいは動物の飼料用に切り分けた脂肪を各々の工場に運びます。西洋風の洋服に身を包み、現代文明社会の破壊的影響をまともに受けて惨めな集落生活を強いられ、逆境におかれた村の人々にとって、海獣猟は民族の独自性、民族の誇りを保もつ唯一の機会と言っても言い過ぎではありません。

25:20  エスキモーの伝統舞踊です。本来は手袋をつけて踊るべきだということを覚えている人がまだ残っています。かつて、踊りは精霊との交わりの儀礼の一部であり、踊り手の手は見えてはいけなかったのです。一時、海獣猟の儀礼が忘れられ、日常生活から踊りが消えてしまい、地域の歓楽街の舞台に残るのみとなっていたこともありました。しかし最近、各地のエスキモー集落で踊りが再現され、ごく普通の人々の生活でも伝統の踊りが踊られるようになりました。

26:10  子どもたちは、大人の真似をし、互いに間違いを指摘しあい、陽気に踊りながら、知らず知らずの内に自分たちの民族文化を身につけていきます。民族の伝統は、このようにして代々受け継がれてきました。最近、エスキモーの踊りは再び人々の関心を取り戻し、海獣猟と同じように《エスキモーであること》の象徴となってきました。

27:00  過去との絆をなくした民族は、固有の民族として存続し得るでしょうか? 社会経済問題研究所の専門家、A.I.ピークとD.D.ボゴヤヴレンスキーの研究データによると、チュコト半島住民の平均寿命は50才と非常に低く、これはソ連全体の平均より10年から15年も短いものです。自殺の件数はソ連全体の4倍、死亡件数の4分の1は飲酒に関連ある何らかの事故です。こうした現実がこの地域の社会的・人口動態状況の悪さを示しています。住民は伝統文化にも現代文化にも根を下ろすことができず、多かれ少なかれ苦しんでいるのです。

27:50  尊敬する人々の墓に生け贄のトナカイの角を捧げます。この墓は、伝統的なつくりにつけ加えて、現代風に赤い五芒星が飾られています。


28:20  1983年夏、チュコート半島の集落エンメレン村の近くで、トナカイ飼育民の生業暦の上で重要な年中行事である『トナカイの繁殖祭』が執り行われました。この行事は私有トナカイを持つ人々のみが行ないます。

28:50  牧夫は、夏のあいだトナカイの群をひきつれてツンドラ地帯の奥深く移動を続けます。8月末、夏の放牧を終えた牧夫とトナカイの群は、家族の《ヤランガ》が点てられた地点に戻ります。盛大な出迎えを受け、一連の儀礼が執り行われます。

29:20  女性が火起し板を擦り、神聖な火をおこします。火は板に添えられた芝草に移ります。芝から煙がたち上がるとそれを《ヤランガ》の外に運びます。留守を守ってきた家族は出口に揃い、近づいて来るトナカイの一行を迎えます。

29:55  全トナカイが神聖な火の恩恵を受け、知らない土地で牧夫に取りついた汚れた霊を清めることができるよう、留守を守った女性が火のついた芝草を群の方角に向け投げます。

30:05  夏の間トナカイの餌となる植物の葉や草で作った供物が地面の四方角に供えられ、一部は群のいる方角に投げかけられます。

30:30  一族の主婦は、火おこし板で用意した神聖な《ギチュギの火》で食物を炊きます。

30:45  《ヤランガ》のほど近くに置かれた生け贄のトナカイの遺体にミソハギの枝で飾った橇、供物、火起し板が運ばれます。

31:20  動物の屠殺を司るのは《火起し板の精霊》です。血と脳髄はその精霊たちの大好物です。

31:35  儀礼に参加する家族一同が顔に生け贄のトナカイの血を塗ります。ボゴラズの報告によると「人間の顔に血を塗るのは、そうすることによりトナカイの守護霊の顔に似るからである。目の上の点は守護霊の目、頬の点は耳である。」ということです。先ず、家族から離れて夏を過ごした牧夫が顔に血を塗ってもらい、それから家族、近親者に塗っていきます。

32:15  ミソハギの枝を生け贄のトナカイの頭の下に敷き枕とします。

32:25  骨は注意深く全部一箇所に集めて燃やします。

32:40  『神聖な火』に捧げる供物として、神聖な肉片を神聖なかまどで焼きます。この特別霊験あらたかな肉片を、その後で家族が客と分けあって食べます。

33:20  残ったトナカイ肉は、定められた順序に並べ日干しにし、大きな肉片は《ヤランガ》の中で茹でます。《トナカイ帰還の祭》は同時に、屠殺、解体、衣服用毛皮の準備等々、しなくてはならないことを沢山伴う緊張した儀礼といえるでしょう。

34:00  火起し板に向かい太鼓を叩き、生け贄のトナカイが火起し板に捧げられたことを報告します。生け贄にされたトナカイの霊を鎮め、《ヤランガ》の外で子どもを探して歩き回る母トナカイの心を慰めるため、一晩中太鼓を叩いて唄い続けます。


A アムール川下流部 ナナイ・ウリチ

34:30  一年後の1984年夏、今度は極東の大河、アムール下流地域を訪ねました。アムール地域に住む先住民族ナナイ、ウリチ、ニブフは、現在、近代的な集落で暮らしています。ここには、雷を模した民族文様彫刻の飾りをつけた古いロシア式木造家屋も僅かながら残っています。しかし、漁労と狩猟による伝統的な暮らしは今や全く見られません。タイガにおける狩猟は、製材企業の森林伐採により出来なくなり、工場排水によるアムール川の水質汚染により、川の漁猟は禁止されています。刺繍工芸が唯一残っている伝統文化です。

35:40  ナナイのジャリ村に住むタチアナ・コンスタンチノヴナ(ホジェル)がアップリケの伝統手法を見せてくれました。

36:20  最近、手芸用の刺繍糸やテープが盛んに売れるのだそうです。

36:50  衣服、家庭雑貨、住居などに多用される装飾デザインを比較して見ていると、アムール地方の諸民族が何代にもわたり互いに交流してきたことは一目瞭然です。

37:00  こうした素晴らしい雷文模様は、中国伝来のものです。

37:20  ウリチのブラバ村で、幸運なことに《熊送り》の儀礼を覚えているお年寄りに話を聞くことができました。ウリチは、アイヌやサハリンのニブフと同様、檻で仔熊を育て《熊送り》儀礼にあたって特別に祭壇をしつらえクマを生け贄とします。クマは育て主のもてなしに感謝しつつ地上を去り、《タイガの民》のもとに戻っても引き続きウリチの民に感謝し、友情を示すのだと信じられています。女性が《尊敬する客》すなわちクマのために踊りを踊ります。長い丸太をわたした楽器で『クマが食べる』、『クマはタイガに帰って行く』、『カラスがつっつく』、『犬が吠えた』等々《熊送り》で奏でられる曲を演奏してくれました。丸太の端がクマの頭部の形に彫ってあるのは、これら全ての曲をクマがちゃんと聞くことができるよう願ってのことです。

38:50  ナナイのアチャン村で、1907年生まれのニューラ・セルゲーエヴナ(キーレ)に会いました。6年ほど前、足を痛め、知り合いの老人に薦められて伝統的治療法であるシャマンの治療を始めました。まず、太鼓と金属製の鈴が沢山ついたベルトを渡されました。それ以来、古い戒めに従い精霊に礼拝し、健康を祈る生活をしてきました。今、『若い人たちが遠くからやってきて、私のすること、なすことに興味を持っています。精霊よ、私やこの若い人たちに病を送りつけないでください。家々に栄えをもたらしてください。主人も健康でやっていけますように!』と祈っているところです。夫のアレクサンドル・セルゲイヴィッチ(ホジェル)はかつて石工でした。現在は引退して年金生活を送りながらシャマンの妻が行う治療を一生懸命手伝っています。

40:05  ニューラ婆さんは、自分自身とごく身近な人たちに降霊治療を行うだけですが、ダエルガ村に住む1914年生まれのガーラ(キーソヴナ・ゲイケル)婆さんはもっと手広く治療を行い、同じ村の住民ばかりか、かなり遠方からも患者が治療を受けにきます。もともとシャマンの家系で、ロシアの有名な文化人類学者シュテルンベルクが今世紀初頭に研究した有名なナナイのシャマン、チュッケ・オニンコの孫にあたります。シャマンになる以前、ガーラ婆さんはたびたびシャマンの女性がかかる病、巫病の発作に見舞われました。従姉妹によると、衝動的に唄い出し、それが途中から何ともいえない叫び声に変わり、ある時など突然家から飛び出しアムール川に飛び込んでしまったということです。つまり、精霊がシャマンとして彼女を選んだのです。彼女の透視力は優れており、例えば家にいながら、隣の家で自分のことを何と噂しているかを当ててしまったり、小石を使って無くなったものや行方不明になった人を探し出したりします。

41:30  現在のシャマニズムについて、ガーラさんに聞いてみました。

41:40  『精霊に祈祷することを、どうしても理解しようとしない人はいるわよ。』

42:00  『それでも病院はあっても、シャマンに治療をしてほしいという人も沢山いるのよ。』

42:10  『とはいっても私たちが死んだら、シャマンはいなくなってしまうでしょうねぇ。』

42:30  これは水の神に供物を捧げているところです。

43:00  水の神はガーラ婆さんにとって特別な関係があり、複雑な間柄です。ガーラさんがいうには、水の神は彼女が病人の魂を黄泉の世界《ブニ》に送る儀礼《カサ》の儀式を行なうことを禁じたそうです。ある時、精霊が彼女を眠らせ、その際ガーラさんは魚がガーラさんの肩を噛む夢を見ました。その夢こそ神のお告げでした。その夢を見てからしばらくの間、彼女は寝込んでしまいました。繰り返し治療が行われ、祈祷をあげてもらいやっと快復したということです。それ以後、彼女は水の神への儀礼を欠かさず、シャマンの唄を歌い、祈祷し、供物を捧げてきました。

44:10  水の神への供物を捧げる儀礼の他に健康祈願の儀礼《エピリウリ》も撮影させてほしいと頼んだところ、ガーラさんは貴重な儀礼を見せてくれました。年に一度、主に秋に、精霊セヴェンのために盛大な供養が行われます。儀礼に先立ち参加者全員で供物を用意します。塩を入れないお粥、大豆とマントーと呼ばれる団子が用意されます。ガーラさんの精霊セヴェンについて証言してくれた人がいます。それによると、精霊セヴェンはおいぼれた老人で、だからこの老人のためにはお粥が相応しいというのです。他の精霊はご馳走として例えば血を要求するそうです。また長い間、死人の魂を見守ってきたお婆さんの精霊も現れます。助け綱がなければ到底歩けなくてヨロヨロしています。ガーラさんは、戸口で一つ一つの精霊を丁重に迎え、訪れる精霊のものまねをし、供物を捧げ、そして見送ります。《セヴェン》が終わると参加者一同に食事がふるまわれます。

45:25  ダエルガ村のような小さな村には本来シャマンは一人いれば十分です。けれど実は、すぐ近くの通りに住む1924年生まれのマリア・ペトロヴナ(ベルドィ)もシャマンです。マリアさんが、ギニ・ゲイケルというお婆さんの治療をするというのでちょっと覗いてみました。この患者は1年ほど前、卒中の発作を起してから介助なしでは歩くこともできません。シャマンは、ギニさんがどのような夢を見たのかを聞き、実はギニさんの親戚で既に亡くなっている女性がギニさんの病気の原因になっているという結論に達しました。そこで患者にシャマンから出された指示は、普通シャマンの出す指示とは違っていました。通常、シャマンは病人を脇において自分で亡くなった人の霊魂を探すのですが、シャマンのマリアは、怒っている霊に患者も一緒に会いに行くようにといいわたしました。霊魂の国への旅は残念なことに全て暗闇で行われるので撮影できませんでした。シャマンの説明によると、暗くなければ霊の道は見えないのだそうです。

46:35  そこで我々は仕方なく、夫の介助を得た患者がシャマンの指示で《旅から戻ってくるところ》を撮影させてもらいました。旅に出る前より余程楽になった様子で動きまわり、唄っていました。

48:10  病気の原因となった精霊は、この瞬間一同と共にこの部屋にいるので、その精霊にウォッカを捧げ、清めの煙が振りまきます。

48:40  シャマンのマリアの夫はナナイではなく、コーカサスの人で近代的な住まいにはスターリンの肖像が飾ってあります。

49:00  次の晩、患者の家で《セヴェン》への感謝の儀礼が行われました。患者はシャマンの指示に従い、特別に用意した小型の机に精霊の像を飾り、精霊を戸口で出迎えます。シャマンが祈祷を唱え、それに患者が唱和し、参加者一同は一人づつ順番に精霊に各々の好みの供物を捧げます。シャマンではない患者には招待された精霊の反応がわかりません。でも二度目の降霊儀礼に際して、患者はご利益を期待して終始誰の助けも受けずに動き、最後に『昨晩、私は杖もつかずに家に帰り、今はとても気分が良くなりました』と精霊に向かって報告し、堂々とお礼を述べました。


B ヤクート自治共和国(現サハ共和国) ヤクート

50:10  ミハス爺さんと呼ばれているミハイル・ヤコヴレヴィッチ(イヴァノフ)は、ヤクーチアのアムギン地方ミャンディギ村に住んでいます。若い頃、ミハス爺さんはシャマンの助手《クトゥルクスゥト》をしていたことがあります。シャマンの衣装についている飾りの意味を教えてもらいました。太陽、月、そしてシャマンの守護霊である《不死のエメゲット》、神話に登場する双頭の鳥《エクセキュ》です。金属の骨は、シャマンの強靭な骨格を表します。邪悪な精霊の攻撃にも砕けることはありません。

50:55  スンタル地方エルギャイ村で、学校附属博物館にシャマンの衣装が飾られています。衣装につけられた金属製の飾りは全て、今は亡き鍛冶工ガヴリエル・セルゲイヴィッチ・ザハロフの手になるものです。彼は生前数多くのシャマンの衣装の飾りを作りました。これは、シャマンではなく博物館の注文に応えて亡くなる直前に彼が作ったものです。
51:35  ミハス爺さんがシャマンの治療を見せてくれることになりました。近所の人を助手に頼み、自分は森で呪術用の棒を伐り出してきました。かつて有名なシャマン、パヴロフ・オユンがクズィム・ゲルモゲノフを治療した際行った儀礼と同じ儀礼の準備が始まりました。

52:00  シャマンの儀礼《カムラーニエ》にあたり、まず《目の病の根》と呼ばれる複数の精霊を呼びだします。精霊は天上第七層に住む年老いた男女です。

52:10  《カムラーニエ》の祈祷に先立ち、邪悪な精霊《アバーシ》を患者の体から追い出し、両親の住む天上第七層に送る水先案内人となる2羽の白いカモメ像が作られます。
52:45  撮影隊が来ていることは近隣に知れ渡りました。ミハス爺さんに助言を与えている老人たちもシャマンの儀礼をよく覚えています。先に触れたシャマン、パヴロフの息子もやって来ました。私たちは、夜を徹してシャマンの祈祷を撮影・録音しながら、老人の言葉を聞いているのは自分たちだけだと単純に思い込んでいました。しかし、太鼓の音は村中の人々の耳に届き、パヴロフの息子は、父親の奏でていた懐かしいメロディーと祈祷をはっきりと聞いていたのです。

53:35  シベリアに住む他の民族と同様ヤクートも、宇宙は天上・中層・地下の3層の世界からできていると信じています。天上と地下には精霊が住み、中層の世界に人間が住んでいます。霊界への道は、神聖な綱《シティイ》で表わされます。綱は馬の毛をより、白と黒の二色にするため一握りのたてがみを結びつけます。

54:15  この儀礼の場合、精霊の住家《アバシーラル》にシャマンが到達するまでに超さなくてはならない天上の層の数に合わせて、七組のたてがみが必要です。

54:45  進むべき方向を知っているカモメの首に綱《シティイ》が結ばれ、目の病を司る精霊が住む南東の方向を向けて、カモメを杭に固定します。シャマンはカモメの後を辿って、精霊の世界へと旅立ちます。

55:20  第一回目の《カムラーニエ》の間、シャマンは座ったままです。その間、人間の住む中層の世界でこの地の精霊に守ってもらっているからです。良い精霊に向かって、この地に留まり人間を守ってくれるように祈ります。

56:05  太鼓を打つ助手も清めをします。彼も天上の第七層まで同道し、共に幾多の危険に立ち向かうので準備を怠ることはできません。

56:40  年老いた精霊の住む《アバーシラル》まで昇っていったシャマンは「あなたの迷子になった息子を地上から引き上げ、引き取ってください」と祈り、つけ加えて「間違ったことをした者がいるとしたら、どうぞお許し下さい』と呼びかけます。

57:35  その後、急いで人間の世界に戻ります。汚れた地に足を踏み入れたシャマンは足に何か悪いものがつかなかったか調べます。道程は霧と雲に覆われ視界が悪いので、シャマンは自分の助手《クトゥルクスゥト》が叩く太鼓の音を頼りに道を戻るのです。

58:10  ようやく村に戻ってきました。旅は守備よく終わりに近づきました。助けてくれた精霊に自分から離れてもらい、それを太鼓の中に封じ込める作業が残るのみとなりました。

58:45  治癒ができた感謝のしるしを精霊に捧げる必要があります。お礼は《ケレフ》と呼ばれます。村のはずれに《ケレフ》を掛けるための『生け贄の樹』というものがあり、普通、屠殺した家畜の皮を吊します。生け贄の頭部がお礼の対象となる精霊の住む方角に向いていれば、人間が捧げものを贈ったということが精霊に通じたと見なされます。

59:15  地上と天上を結ぶ神聖な繋ぎ綱をとめる棒《セルゲ》です。毎年夏の初め、ヤクートの村では、どこでも馬乳酒、クミスの祝典が行われます。この祭りは《イスィアヒ》と呼ばれます。祭の際、シャマンが儀礼を行ったものでしたが、現在そういった儀礼は行われなくなってしまいました。

60:15  輪になって踊る《オソーハイ》。踊っている人々の顔には、民族の唄と踊りに対する愛着と誇りが見られます。

60:35  この地区の《イスィアヒ》で、数奇な一生を送ってきた人と出会いました。スンタル地区キュンディア村に住むニキータ・アレクセイヴィッチ(パルフョーノフ)です。1903年に生まれ、6人の子供をもうけました。ニキータ爺さんは、シャマンになるための入社式を受けました。それは《身体を傷つける》儀礼で、その儀礼の間、精霊が人間の肉体を少しずつ食べるというものです。その後、彼は折角始めたシャマンの修業を中断せざるをえませんでした。 30年代にはシャマニズムが、政府の方針で厳しく禁じられ、彼も弾圧の対象となったのです。夜半、クタナ村の学校附属民族博物館の、この地方ではたった一つの《ユルタ》の中でニキータ爺さんは、徐々に心を振るいたたせ、火の神に近づきます。

61:45  火の精霊は、ヤクートにとって最も崇高な精霊の一つです。以下のように唄いますが、崇められている精霊の名は、どれも厳密ですが単純です。石のかまどの精霊よ暖かい火の神よ灰の床よ枕の石炭よすすけた毛布よ 文句の多い神よ灰色の髭よ明るい頭よ 年老いたハーン・テミリエ爺さんよ冷たい吐息をもった者たちを外から入れないで暖かい吐息をもった者たちを内から出さないで私たちを保護し、守ってください!

63:15  火の精霊への呼び掛けの歌を唄い終わると、シャマンは戸口に行き敷居の精霊への祈りを捧げます。シベリアに住むすべてのチュルク語族の民族にとって、敷居の精霊は共通の家の守護霊です。

64:15  力を集中させ、守護霊の助けを頼みながら、ニキータ爺さんは注意深く病人の身体に潜む邪悪な精霊《アバーシ》に近づきます。

64:30  病気の精霊に、病人の身体から出ていくよう呼びかけます。

65:10  シャマンは奇妙な精霊の声を出し、自分と精霊との対話を続けます。

66:10  しばらく精霊とシャマンは激しい調子で議論を戦わせ、その後、精霊は納得した上で患者の身体から立ち去ります。

67:10  シャマンの助手《クトゥルクスゥト》の手にした太鼓の音を聞きニキータ爺さんは邪悪な精霊が地下の世界に去ったことを確認します。

67:40  シャマンは声だけではなく、身振り手振りで、何が起こっているのか示します。地下に立ち去った精霊のために、生け贄を捧げます。すでにお判りのように、シャマンの宇宙への旅の作法は、一人ひとり違います。

68:25  ニキータ爺さんは、人間世界に戻ってきました。自分の後から邪悪な精霊が人間世界に忍び込んでくることがないように、お辞儀をした上、地下の世界への通用口を閉める歌を唄います。

68:40  儀礼は、決まりに従って占いで終わります。太鼓のバチ《ブィライアフ》が放られ、バチの頭の方が下側になりました。こうならなかったとしたら、患者は治らないところでした。

69:00  98才の民間治療師、ニコン・アレクセイヴィッチ(ヴァシィリエフ)に会ったのは、ヴェルフネ・ヴィリュイスク地区ブトゥル村です。ニコン爺さんは、ずっと以前にシャマンの儀式を止めましたが、医療行為は止めませんでした。シャマンの宇宙観をとても良く理解しながら、今では精霊を呼び出す儀礼をして治療をすることはありません。

69:40  治療にはマッサージとか牛の角で傷つけ悪い血を吸い出す瀉血療法など、さまざまの方法を使っています。

70:05  毎年、牧草が青々とする季節、タイガの森の中で秘密の場所から強壮剤になる薬草を刈り集めてきます。評判が高く、医学専門家も良く判らない患者をニコン爺さんによこすほどで、彼の家はいつも賑わっています。

70:45  この少年は、お兄さんと同様、生まれつきの盲目です。ニコン爺さんの治療を数回受けた今では、光や、ものの形が微かに見えるようになりました。

71:15  ニコン爺さんは、自分の祖先の歴史を詳しく知っています。彼の祖先はかつて七代にわたってシャマンでした。シャマンになる能力は、自分で最後だろうといっています。


C ヤクート自治共和国(現サハ共和国)南部 エヴェンキ

72:00  ヤクーチア南部、ムレンコン川の上流地域。タイガの狩猟民でありトナカイ飼育民のエヴェンキの夏の放牧地です。エヴェンキは、他のシベリアのトナカイ飼育民と違って、トナカイに騎乗し、巧みに乗り回します。

72:45  エヴェンキは、シベリアに住む少数民族の中でも最古の民族です。祖先は新石器時代にすでにこの地に住んでいました。

73:10  日常生活には外から入ってくる新しい製品が使われています。鉄製ストーブ、西洋の洋服、伝統的なチュムではない防水布製のテント、外部の世界と彼らをつなぐポータブルラジオ等々です。しかし、トナカイ飼育民としての生活様式の基本には、なんら変わりはありません。

74:25  一年中、移動生活をしている大家族の中心的存在で、トナカイの群を仕切っているのはマトリョーナ・ペトローヴナ(クルバリチーノワ)です。自称97才。マトリョーナ婆さんは、今ではごく珍しくなったエヴェンキの女性シャマンです。自分の親族だけを対象に、しかも手近に太鼓がある時だけ《カムラーニエ》を行ないます。『年長の息子が病気になった時は太鼓が手元に無くて息子を救えなかった。けれど義理の兄が火傷した時は幸運だった。』といいます。

75:20  そこで太鼓があるようだから、降霊術をやってもらえませんか? ということになりました。お婆さんの可愛がっている孫リョーニャが、二年間の軍隊勤めを終えて、他の軍隊仲間と一緒にこの宿営地に戻ってきたところでした。早速、孫の帰還を精霊に報告し、これからの無事を祈願することになりました。

76:00  降霊術の準備の間に、良い音が出るよう太鼓を火にかざし温めます。他の家族は日常の家事に励んでいます。

76:40  子どもたちが、大人の真似をして野生トナカイの骨を模して樹の枝でトナカイの骨格を作り「送り」台を作っています。骨をバラバラのまま放ったらかしにしておくと、トナカイの魂は二度と生き返ることができず、群は滅んでしまいます。

77:00  この女性シャマンの守護霊はカッコウです。シャマンは、度々カッコウの声を発します。シャマンが儀礼の直前、カッコウを捕まえて殺し、その血を絹のハンカチに塗っておいてほしいといい、用意は整いました。

77:20  シャマンは、守護霊に歌を唄い、精霊を自分に呼び込み供物を食します。他の精霊は、火を通してもてなされます。

78:00  最寄りの集落より300キロも離れて暮らすこれらの人々と自然との絆は、きわめて強固なものです。しかしここでも、あるいはここだからこそ、その絆をさらに強く具体的にするために、時々、自然の力を擬人化し、人間集団の代表と直接接触させる必要があるのだと思われます。

78:50  布製の面で人間世界と隔てられ、体内視覚と聴覚によって導かれて、厳しい旅に旅立つシャマンは、人間社会との連絡を全てたち切ってしまうわけにはいきません。衣裳の後ろにつけられた革綱がテントのポールに結ばれていますが、これはシャマンの道が、精霊の世界に続いているということを象徴したものであり、同時に、精霊の世界への往復中、シャマンの体が倒れないようにするものです。

79:45  シャマンの祈祷を、降霊儀礼の出席者全部で復唱し、精霊への祈願をより強く訴えます。途切れることなく引き延ばされる同じメロディーは、人間と自然を結ぶもう一つの音を伴った絆となります。

81:00  降霊儀礼は数時間続きます。シャマンは鈴を鳴らしながら、次々に新しい精霊を呼びます。陶酔状態のシャマンは、カメラでは捉えられない世界に入って行きます。歌は徐々に意味不明なものになります。

82:20  シャマンが精霊に、親族と客の将来の運命について問いかけます。太鼓のバチの落ち方で、精霊から好意的な返答があったことが判ります。

83:00  降霊儀礼の最後に、マトリョーナ婆さんは完全なトランス状態に陥り、親族は復唱を止めました。煙を吹きかけ、シャマンの衣裳を脱がせます。

83:20  相変わらず訳の分からない唄を唄い続けながらもマトリョーナ婆さんは、だんだんにおとなしくなり、意識が戻ります。


D ロシア沿海地方 ウデヘ

83:45  これは1928年に、ロシアの著名な学者、アルセーニェフの指導下でウスリー地方のタイガでウデヘを撮影した『森の民』という記録映画の珍しい降霊の風景です。当時、シャマンに《カムラーニエ》を頼みに来る人は誰でも、降霊儀礼の前に自分も踊り、精霊に助けを祈願しました。

84:15  ウデヘのシャマン、アムレンカとその助手です。

84:35  トカゲ、ヘビ、その他のシャマンの精霊の像が衣裳を飾っています。頭には当時の赤軍帽を被っています。

85:00  儀礼の行なわれる広場の中央に、神聖な樹が据えられています。シャマンの祈りは枝を伝って精霊に届き、香の煙と供物の匂いがお返しを催促します。

85:20  アルセーニェフの撮影から60年経って、1984年、沿海地方のウデヘのクラスヌィ・ヤール村に行ってみました。

86:15  驚いたことに、この地では集団《カムラーニエ》の儀礼がまだ行なわれていました。儀礼が行なわれる場所は決まっています。村のわきを流れるビキン川上流の小石がゴロゴロしているようなところです。

86:45  その場所に、年齢の異なった老人、その子供、また孫たちが向うので私たちも一緒に出かけてみました。

87:15  老人たちはケースに入った太鼓、鈴の沢山ついたベルト、精霊に捧げる供物、儀礼用の衣裳、さらに各々がしまっていた儀礼に必要な細々とした物を持って集まりました。

87:40  女性は儀礼の行なわれる場所につくと、一箇所に集まり、ひそひそ声で土地の精霊に、何で余所者をこんなに沢山連れてきたのかを説明します。若者たちも昔のことを知っているようでした。

88:25  整然と儀礼の準備が整えられます。お茶が用意され、テントが張られ、人々は身支度をします。儀礼用の《削りかけ》を削ったり、それを頭に乗せたり、腕につけてたりしています。この《削りかけ》に特に注目してください。アイヌの《削りかけ》は、イナウと呼ばれて良く知られています。

90:00  精霊の注意を喚起するため、儀礼用の柱に赤い布を付けたものを立てます。

90:10  音を良くするために、太鼓を火にかざします。

90:30  男たちは柱の周りで踊りの準備にかかり、女たちは柱の根元にお粥、イソツツジ、平パンなどの供物を置きます。

91:10  盲目の女性シャマン、ナデージダ・リボツァノヴナ(マルティーノワ)が儀礼を執り行います。土地、草、樹々、薮の精霊に祈りを聞いて欲しいと述べ、一同に会した人々に慈悲を与えて下さいと祈ります。

91:40  精霊の耳にはっきり届くように、彼女は自分の太鼓とベルトにも、良く鳴ることを祈ります。

91:50  精霊に捧げものを受け取ってくれるよう祈ります。

92:25  そして参加者一同に彼女を助けること、お互いに助け合うことを頼みます。

92:55  踊りが終わっても彼女は唄い続け、精霊との接触を続けます。

93:30  続いて、樹の周りを踊り始めたもう一人の女性に、役割が引き継がれます。

94:20  最後を引き受けるのは、シャマンの修行中の、1916年生まれのタチアナ・カディゴヴナ(ピアンカ)で、先輩のシャマンの助けを借りながら、精霊に向かって訴えの歌を唄います。こうして儀礼の出席者は、皆で協力しながら精霊の世界と深い交信を続け同時に、精霊の世界と人間の世界を確実に結んでいるのです。

タイトル:  
さらに、この記録映画の完成は、1991年1月20日のソ連特殊治安部隊OMONのラトビア内務省ビル襲撃にあたって、この作品の演出・撮影を担当したアンドレス・スラーピンシュが悲劇的な死をとげたことによって中断されました。 

この記録映画は、ソ連作曲家同盟全ソフォークロア委員会による下記の調査旅行にあたって撮影されました。  

1980年     
ヤクーチア(現サハ共和国)

1981、1983年
チュコート半島

1984年     
ハバロフスク・沿海地方

次の施設の貴重な資料の提供と、館員たちの助力に感謝します。

ソ連科学アカデミー(現ロシア科学アカデミー)人類学・民族誌博物館(レニングラード=現サンクトペテルブルク)、

ソ連諸民族・民族誌博物館(レニングラード=現サンクトペテルブルク)、

ハバロフスク市郷土誌博物館、

アナドィル市郷土誌博物館、

ヤクート自治共和国=現サハ共和国エリギャイ村学校附属博物館、

ソ連国立中央記録映画・写真資料保存所、

ロシア文学研究所音響資料保存所

作者らは、貴重な助言を下さった研究者たちに深く感謝します。
民俗音楽学者、 T.D.ブルガーコワ(レニングラード=現サンクトペテルブルク)、 Yu.I.シェイキン(ノボシビルスク)、

民族学者、V.V.ゴルバチョワ(レニングラード)、 M.A.チレノフ(モスクワ)、 I.P.クループニク(モスクワ)

そして各地で、調査を助けて下さった沢山の協力者・通訳者たちに感謝します。
Z.タグリナ(アナドィル)、
R.ベリドィ(アムール州ナナイ地区ナイヒン村)、

V.P.ホジェル、I.P.ゲイケル、V.S.キール(アムール州ナナイ地区アチャン村)、

P.カリュンディガ、V.シグダ(沿海地方ルチェゴル地区クラースヌイ・ヤール村)、

M.クチェルーク(チュコート民族管区マルコフ地区ヴァエギ村)、

B.N.アンドレーエフ(ヤクート自治共和国=現サハ共和国スンタル地区エリギャイ村)


テキスト翻訳:岡田 正子・岡田 一男 1993.07.25.


1996年末に、モスクワのロシア国立人文大学に新設された映像人類学研究室において、この作品の作者の一人、エレナ・ノヴィク、亡きアンドリス・スラーピンシュの未亡人ナタリア・デューシェンらが、このテキストに手を入れてロシア語版を完成させた。